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みんな、大丈夫ですか? これ、「はい」「いいえ」で答えられない質問だって、知ってます。 「全然大丈夫じゃない!」ひとも、「大丈夫だけど大丈夫じゃない」ひとも、いますよね。 大阪に住んでる僕は、「もちろん大丈夫だけど、つらい」です。 どうしてだかわからないのですが、この震災のニュースを見たり聞いたりする自分が、 これまでのどの震災について考えていた自分よりも、心を痛めています。 ニュージーランドや、新潟や、トルコを見ていたときと、明らかに違う気持ちがある。 それは、不遜な言い方かもしれませんが、ニュース映像の中に「彼ら」ではなく「僕ら」を 見ているっていう、確かな気持ちがあるんです。 故郷の東京も被害を受けたからかもしれない、 同じ会社の仲間が仙台にもいるからかもしれない、 鹿島アントラーズのスタジアムも、被害を受けたらしい。 理由はともあれ、安全な場所にいる人間の平和ボケしたことばだって思われてもいい、 「被災したのは、僕らだ」っていうことを、僕は痛いほど感じています。 だから、ニュースを見て聞いて、きっとたくさんの人がそうしたように、 「なにができるのか」を考えました。 具体的なことは、まだよくわかりません。 「必要なもの」を挙げれば、きっときりがないと思います。 お金も、食料も、毛布も、衣服も、住宅も、人手も、ライフラインも、足りてないはず。 僕も、力の限りお手伝いしたいです。 お米を運んだり、お年寄りを手伝ったり、力仕事要員になったり、したい。 でも、それよりも先に、今すぐできることも、きっとあると思うんです。 大阪に暮らして、毎日電車に乗って通勤して、終電で帰宅する僕のままでも、できること。 それは、「よろこびを生み出すこと」なんじゃないか。 地震によって、「僕ら」はあまりも多くを失っています。 建物、町並み、命。 そして、それらのかたちをした、たくさんの想い。 失われたものの埋め合わせは、絶対にできないんだと思います。 できることは、「かなしみ」と「よろこび」のバランスを取り戻すこと。 今、「僕ら」のなかにあまりもたくさんの「かなしみ」が生まれてしまっています。 それらの「かなしみ」を消すことは、きっとできません。 でも、その「かなしみ」のとなりに、別の「よろこび」を置いてあげることはできる。 「かなしみ」も「よろこび」もどっちもあるのが、生きることだと思うから。 「かなしみだけじゃないよ」って言いたい。 「よろこびも、きっといるよ」って言いたいです。 だから、「よろこび」を生み出したい。 それは同僚と仲良く仕事をすることであり、 スーパーのレジで「どうも」って言ってみることだったり、 友人に「+5%の笑顔」で接することだったり、します。 それが、「震災を免れた“僕ら”」がまずできることだと思います。 今のところ、僕はそれをやります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年03月13日 08時33分04秒
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