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よく、「わたし、私が許せないの」とか、「今の自分が一番好き」とか言われてるときの 許されてない「私」とか、好かれてる「自分」って、いったい誰のことなんでしょうね。 誕生日を迎えた今日は、そんなことを思いました。 いろんな方に「おめでとう」って言ってもらってる自分とは、 「果たして、オレなのか?」という突然の疑問を持ったわけです。 それは、25年前(まだ若いんですよ)に「おぎゃあ」と生まれた「オレ」を、 みんなが祝福してくれているという絵を描くのは、ちょっと無理があるよなあと思ったからです。 それを祝ってくれるのは家族くらいなもので、 じゃあそうじゃない人が祝ってくれてるのは誰のことかといえば、それはきっと、 「会社の中の自分」であったり、「ともだちの中の自分」であったり、 「恋人との間の自分」であったり、するんだと思います。 つまりは、「みんなの中の“オレ”」です。 これは、とても大事なことのように思えます。 「自分」っていうのは多面体なんです。 「会社の中の自分」は「ともだちの中の自分」とは違うし、「恋人と間の自分」とはもっと違うでしょう。 「自分」っていうのは、惑星としての地球がそうであるように(大きな例えだ)、 「真ん中には何もないけど、表面はいろいろ」な存在だと思います。 そして、この「いろいろ」な表面をつくるのが、「みんな」なんです。 「会社の中の自分」は「会社のみんな」がいてはじめて存在し、 「ともだちの中の自分」は「ともだちのみんな」がいてはじめて存在し、 「恋人との間の自分:は「恋人」がいてはじめて存在します。 この「存在」って部分を、「誕生」と置き換えてもいいくらいです。 自分っていうのは、関係性の中にしかありえないんですね。 そうなると、「自分が好き」っていうのはそのまま「みんなが好き」と言い換えられることに気付きます。 そして、誰かに「おめでとう」と言うことは、 そのまま自分たちにも「おめでとう」を言っていることになります。 「わたしが好きです」を含まない「あなたが好きです」はないし、その逆もないってな具合です。 いわば、「自分」と「みんな」を一続きにした、分けるのではなく一体として考える、そんな見方です。 これは割りといいなあ、と一人ほくそ笑む25歳のはじまりはじまり。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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