え?と思ったフランス語翻訳
さて、あるウエブサイトで読んでしまった和訳には椅子からころげ落ちそうになった。それはこのフランス語。l’Orient m’est indifférent,普通に意味を読み取れば、「私は東洋に関心はない」「無関心である」「気にならない」それを「オリエント(東洋)は私に対して冷淡(無関心)である」と訳した人がいた。これが正しいとしたら、今まで私が理解していたフランス語は何だったのお、とドキドキしたくらいの衝撃的な解釈。Je ne regarde pas amoureusement vers une essence orientale, l’Orient m’est indifférent,il me fournit simplement une réserve de traits dont la mise en batterie, le jeu inventé, me permettent de « flatter » l’idée d’un système symbolique inouï, entièrement dépris du nôtre.Je ne regarde pas amoureusement vers une essence orientale,「東洋の本質に迫ろうと熱狂的に見つめているわけではなく」彼の意図は別のところにある。「私は東洋に関心を示しているわけではない」と続く方が自然だと思う。日本を訪れてフランスとは異質の文化に触れるフランス人の新鮮な驚きはそのまま「記号」あるいは「象徴」という視点で語られる。ここでは「私は特に東洋に関心を持っているわけではないが」というくらいの感覚で、東洋と西洋がどうのこうのを論じるつもりはないくらいの感覚ではないかと思う。この文章はウエブサイト翻訳論その他(http://d.hatena.ne.jp/nakaii/20111106/1320561275)で紹介されている。で、紹介した人も「え?」と書いているが、この淡白な「え?」にどれだけ救われたかはわからない。この「え?」で救ってくれた人はフランス語翻訳者、中井秀明氏である。興味のある人は(http://d.hatena.ne.jp/nakaii/20111106/1320561275)で中井氏の説明をじっくり読んでみることをお勧めします。私が何故心臓をドキドキさせたかというと、たとえば、日常生活の中のフランス語でCela m'est indifférent の同義語でça m'est égal があり、これも「どちらでも同じです、どちらでもいいです、気にしません」という意味で使う。夜行バスと夜行列車、どれで行きたい、と聞かれて ça m'est égalと返事をもらったら、あ、どっちでもいいんだ、場合によっては、どうでもいいんだね、ということにもなる。ça m'est égal は場合によっては「もう、どうでもいいわ、どっちでも」みたいな投げやりなしらけているイメージを与えるリスクもあるので、このセリフを一個だけポツンと使わないほうはいいような気はする。ま、イントネーションにもよるとは思う。それで、極、自然にl’Orient m’est indifférent は「東洋は私に無関心だ」とは決してならないのでは、と。「東洋は私に無関心だ」と言いたいなら、次のようになると思うのだ。l'Orient ne s'intéresse pas à moi.l'Orient est indifférent avec moi.次の例文を見て欲しい。Mon copain est indifférent avec moi. 「彼は私のことは何とも思ってないの」Mon copain est indifférent à moi. 「彼は私のことは何とも思っていないの」Mon copain est indifférent à ma souffrance. 「彼は私が苦しんでも気にもとめてくれない」Mon copain m'est indifférent. 「私は彼のことは何とも思ってないの」(私にとって彼は気にならない存在)(ちなみに Mon copain モンコパン は「友達」の意味で使うことが多い。 相手が女の子で「私の友達」なら、ma copine マ・コピン)à moi と m’ (=me) を同じ意味で使える場合もあるが、上の文例のように反対の意味になる場合もある。この違いはどうして?と聞かれても、うまく説明する自信はない。違いの感覚を把握できるように、日常生活で結構出てくる 文例にいくつか慣れてくると感覚は掴めるんじゃないかと思う。動詞にもよるだろうし。Il m’est impossible de lui dire cela. 彼にそんなことを言うなんて私にはできません。Il est impossible pour moi de lui dire cela 彼にそんなことを言うなんて私にはできません。Je te parle, je parle à toi. 君に話しているんだ。Ça n'arrive qu'à moi ! それは自分にしか起こらない。 → いつも私ばかりこんな目に。Cela m’arrive d’oublier qui je suis. 自分が誰だか忘れることがある。me 1人称の間接目的語「~に」(le pronom personnel COD ou COI)moi 人称代名詞間接目的語 (le pronom personnel en forme tonique)l’Orient m’est indifférent はフランスの哲学者ロラン・バルトRoland Barthes (1915-1980) が日本を訪れた後で書いた著書 L’Empire des signes の抜粋文章だった。Mona Chollet という人がこの著者と本について言及している。http://www.peripheries.net/article234.htmlこれを読むと、ロラン・バルトは日本のことをとりわけ研究したとか、よく知っているわけでもない。特別に東洋の本質とか何か、と追求しようとしているのではない。日本を体験し、「東洋とは」と論理的に解釈し、その謎めいた様をわかりやすく解釈してみせようとしているわけではない。それがこの著書の意図するところではない、ということを単に伝えている文ではないかと思う。彼の意図は「記号論」などの別の視点にあるだろうし、それだけのお断りとしての文だと思う。 Je ne regarde pas amoureusement vers une essence orientale, l'Orient m'est indifférent,この文章はそういう意味合いを含む文章ではないかと思う。とはいえ、ロラン・バルトは日本の文化に魅了された人ではあったようだ。日本にきても聞こえてくる日本語はわからない、彼はそういう状況をもまた楽しんでいたようである。日本で見たパチンコ、料理、俳句という短い詩、劇場などなど1960年代後半の日本が描写されている彼の本は日本に行ってみようかなというフランス人におススメの著書にもなっているらしい。勿論、ガイドブックとしてではないだろう。Je ne regarde pas amoureusement vers une essence orientale, l’Orient m’est indifférent,il me fournit simplement une réserve de traits dont la mise en batterie, le jeu inventé, me permettent de « flatter » l’idée d’un système symbolique inouï, entièrement dépris du nôtre.le jeu inventé もあまり難しく考えることはなくて、日本に固有の、少なくともフランスでは見られないパチンコなんかもゲームのことを指していただけかも知れないとは思うものの、これも「意味論」「記号論」の何かを仄めかす言葉かも知れない。la mise en batterie もまた同じように特に哲学の専門家でもないのでよくわからない。それとも、単に日本で見た全学連とか何かのエネルギーの充満をほのめかしているのか。ロラン・バルトも日本語がわからないから、勘違いの描写があるかもしれないし。日本でマスクをしているのは日本の空気が汚染されているからだと物知り顔で語るフランス人が短期旅行から戻って語っていたみたいに。さてロラン・バルトの「記号の国」がどういう内容の本であるかは「横丁カフェ」で幸恵子さんが書いている。http://www.webdoku.jp/cafe/yuki/20130425114225.htmlさて、それにしても、正々堂々とロラン・バルトはむしろこういいたかった、と言い切った翻訳のお陰でこうして見直すことができた。面白い、と見てそれが勉強になればいい。それにしても、フランス語が原作なのに、一度英語に訳された文章から日本語に訳される書物が出ているという。これはやっぱり翻訳ミス、解釈ミスのリスクが倍増するのではないか。英訳文を参考にするのはいいとしても。できれば、原文で読んでわかるのがいい。