|
カテゴリ:南仏
上記のようなタイトルを書いたら、たぶん、
フランス文学を愛する人たちから軽蔑とヒンシュクを かってしまうだろうと思いながら、 どうしても止められませんでした。 ごめん。ほんとうにごめん。 ふ、それでは、ちょっとだけ真面目にいきます。 誰、アルフォンスって、と思う人たちのために。 アルフォンス・ドーデの小説「風車小屋だより」を 題材にした1954年制作の白黒の古いフランス映画を観ました。 Les lettres de mon moulin 心が温かくなる人情味あふれるいい映画です。 これは一人の人間を助けることで周囲の人間たちも大きく 変わることは可能だを描いた映画です。 アルフォンス・ドーデの名前は聞いたことはあったけれど、 あまり知らない作家だったので、調べて、ここでみなさんと 分かち合うことにしました。 とはいっても「最後の授業」ってタイトル、どこかで聞いたことありません? ドーデの作品だったんです。La dernière classe 古い南仏映画の監督と言えばマルセル・パニョルの映画です。 Marcel Pagnol 役者たちは主人公のアルフォンスを演じる青年以外は南仏訛りです。 最初は作家アルフォンス・ドーデがロジェ・クルーゼを演じて いるのだ、と勘違いしていました。あほほ。 なので、映画を観ている間、(ほんとにすくえない、と思う) ずっと、ロジェの役を演じるアルフォンスを待ち侘びるおバカぶり。 1954年の映画なので、アルフォンスご自身は、100年前以上に 天国に召されており、映画出演ができるわけがない。 白黒映画には南仏の風景が出てきます。それが、 2016年の南仏の自然の景色とたいして変わりません。 ってことに驚きました。62年前の風景と変わらない自然。 風車と言えば、オランダって気がしますが、小麦粉を挽くために あったんですね、南仏の田舎にも。と、書きつつ、 南仏に2009年から今までいますが、風車は見た記憶がないので、 たぶん、やはりあったとしたら相当珍しいものではないか、と。 南仏には赤い屋根瓦を動かしかねない強風のミストラルが吹くことも ありますので、ま、オランダに匹敵するかどうかわかりませんが、 風は吹きますから風車も回る時は回ったのでしょう。 ミストラルが吹くと頭痛に悩まされるフランス人もいます。 Alfonse Daudet は1840年5月13日生まれでニーム Nîmes に生まれ 1897年に亡くなっています。57年の短い人生。 1840年って日本史年表 http://rakureki.fc2web.com/page002.html によると、日本は江戸時代の天保11年。 清(中国)ではアヘン戦争勃発。 奥さんのジュリアは1844年7月13日生まれで、13日生まれは 旦那さんと同じですね。きっと、あら、同じじゃないって 会話したかもしれませんね。 奥さんは1940年まで生きた方だったので、96年の長い人生です。 アルフォンスの父親は絹織り職人で自らの作品を販売する クリエィターで、そのお陰で家族はある時期まで裕福に 暮らしていました。 若いアルフォンスは病弱なため、南仏の農家で3年間暮らし、 そこでプロヴォンス語 le provençalを話せるように までなります。プロヴォンス語は現在でも南仏の大学で教えられて いると聞きます。エックスオンプロヴォンスの町を歩くとよく プロヴォンス語で通りの名前が書かれていたりします。 1849年にはドーデの父親は仕事がうまくいかず、 当時の絹の都リヨンに家族で移ります。 アルフォンスはリヨンの学校に奨学金を得て通学し、まあまあ 成績は良かったようですが、虐待に遭い、この時、バカにされて 「おい、貴様、チビ」と呼ばれたセリフをそのまま1868年の 小説のタイトルにしちゃいます。Eh, vous le petit chose... なんというか、「チビ」より「小さい物体」みたいな言い方 なので人間以下みたいな扱いで、ふんとに失礼な言い方 と思いますが、ただ、意地悪する側も意図的なのか、それとも 単に勉強をしていないがゆえのエラーなのか、女性名詞 を男性名詞で言っているのが、「お?」って感じで興味深い。 さて、1857年にはいよいよ父親の仕事は破産し、 両親は別れてしまい、アルフォンスは何ヶ月間か、バカロレア取得前に 高校を中退し、寄宿中学校の見張りの仕事をして生活費を得ます。 見張りあるいは監督人、管理人と訳すのかな。 un poste de surveillant という仕事は今でもフランスの 中学校や高校にあります。 生徒たちの欠席や遅刻を管理する仕事で、若い人たちや、 あるいは自分の息子を見守りたい母親が仕事に就いて いることもあります。 さて、1858年の年末にアルフォンスはパリにいる兄アーネストのもと に行きます。1858年からパリ市内の女中部屋、いわゆる屋根裏部屋に 住みながらもアルフォンスは文才を生かし、 詩集「恋する女たち」Les Amoureusesを出し、これが大ヒット。 この時、アルフォンスは何歳だと思いますか。18歳。 そう言えば、フランソワーズ・サガンも18歳で悲劇をテーマにした 小説「悲しみよ、こんにちは」Bonjour Tristesse を書いて 一躍有名になりましたね。 さてさて、18歳の少年の書いた恋の詩集ってどんな詩を書いたのでしょうね、 ちょっと気になりますね。 これが、フランス皇后ウジェニィの目に止まり、やがて1860年に ナポレオン三世の異父弟ド・モルニー公爵の秘書のポストに就きます。 アルフォンス20歳です。 以後、アルフォンス・ドーデは作品をどんどん生み出していきます。 また後年、作家は印象主義派絵画を擁護する作家としても活躍します。 アルフォンスは27歳の時にジュリア・アラール Julia Allard と結婚します。 画家ルノワールが、1876年に当時32歳のジュリアの肖像画を描いています。 ジュリアがアルフォンスと結婚してから9年目のことです。 ルノワールの画集を紐解くと割りに必ず入っている肖像画です。 右手を右頬の辺りにかざして、こちらを眺める貴婦人、向かって右側の 背景に美しい青が施された絵画作品です。 ジュリア・ドーデの肖像画はパリ市内のセーヌ河沿いにある19世紀の芸術を 集めたオルセイ美術館に展示されているそうです。 ジュリアも17歳で詩集を出すなど、文学に貢献した女性でした。 アルフォンスとジュリアの息子レオンは後年、父の話を語る本の中で 母ジュリアがいなかったら、父アルフォンスは文学的な集いの場であった カフェに入り浸るばかりなどで、あれほどの量の小説を書かなかったかも 知れない、と述べているそうです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 24, 2017 05:02:17 PM
コメント(0) | コメントを書く
[南仏] カテゴリの最新記事
|