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今日2019年9月26日、元フランス大統領ジャック・シラク氏がお亡くなりになった、と知った。
86歳だったそうだ。1932年生まれ。1962年はまだ30歳。 大統領期間は1995年から2007年まで。 元ミッテラン大統領政権では首相を務めた後、大統領になっている。シラク氏の次に大統領になったのはサルコジー氏。力士の名前はすべて覚えたというシラク氏が大の相撲好きの親日家だったので、その反動か、サルコジー氏は日本に対して冷めた印象で相撲のことも皮肉るようなことを言ったらしい、と記事で読んだことがある。 それでも原発派のサルコジー氏は東北大地震の際は現地まで行かれた。これはでも、日本に原発の技術を販売する目的もあったのかも知れない、とつい思ってしまう。報道で見る限り、政治家特有の親近感を抱かせる人柄はあるものの、日本人としては、気持ち的にシラク氏の方がどうしても、日本の文化にも関心を示し、日本とのつながりは温かいものがあったような気がする。 シラク氏が初めて日本に訪れたのは21歳の時だったそうだ。1953年の日本。以降、40回か50回は日本を訪れていたらしい。文学、歴史、刀や茶道にも詳しく、日本のことなら何でも僕に聞いて、というくらいだったのだろう。フランスのスポーツ番組で相撲が放映されたのもシラク氏のお蔭だったそうである。 さて、シラク氏は若い時、コミュ二スムに傾倒していた時代に核実験反対運動に署名もしている。 1960年から1996年まで、フランスは210の核実験を行っている。 ドゴール大統領(1959年-1969年) ポンピドー大統領(1969年ー1974年) ジスカールデスタン大統領(1974年-1971年) ミッテラン大統領(1981年ー1995年) シラク大統領(1995年ー2007年) 核実験はフランス国内ではなく、フランス領で行われた。 アルジェリアのサハラ砂漠Reganneレッガンヌ南西部で空中爆発、 Reganneレッガンヌ南部で地下爆発実験など、 またタヒチから1200㎞先かつニュージーランドから4750㎞先の Mururoa ムルロアや Fangatafua ファンガタウファや、イネケールなどの環礁で、 ポリネシアでは193回に及ぶ実験が行われた。 しかも英国もポリネシアで1958年まで核実験を行っていたのではないだろうか。 1200㎞かあ。南仏からパリまで1000㎞くらいだから、そんなに遠くはない。 遠いけれども、車で行ける距離。 これが原因でニュージーランドを旅行中のベルギー人が現地の人たちからボコボコにされたそうである。フランス人と間違われて大迷惑だった。 2019年5月23日にフランスの国会は、核実験のせいでポリネシアに特に衛生面での被害を及ぼしたことを認めた。ポリネシアでは奇形児の出生数が25年で5倍に増えたそうである。 南仏も時にはパリまでもサハラ砂漠から熱風が届くこともあることを思うと、やはり当時の政治家たちは核実験を軽く見すぎてていたのかも知れない。核保有国にならないと、ソ連から何をされるかわからない、という焦燥感からか。 フランス人の夫は、子供の時にテレビに、あるクリームの宣伝が入り、それが、放射能クリームで美人になる、というようなものだった、と話してくれたことがあった。それほど認識が低かった、ということなのだろう。 世界の核実験数 米国 1050回 主にネヴァダ州で。 ソ連 715回 中国 75回 英国 75回 北朝鮮、インド、パキスタン 6回 世界の空中核実験年代 米国 (1945-1962) ソ連 (1949-1962) 中国 (1964-1980) 英国 (1952‐1958) ポリネシアはフランス領になったばかりに核実験の現場にされてしまった、と思うとなんだかね、しかも核実験の被害というのはすぐにわかることでもなく、実際に被害者が出て、各地で放射線量を測定されてから、と時間もかかる。 核実験とは関係は直接ないけれども、原子力を平和利用しようと、電力に還元する方向に発展した原発。 その原発大国フランスは、2005年前後の原発由来の電力は請求書には90パーセントだと書かれていた記憶がある。今は75パーセントに減少しているそうだ。ちなみに何年か前に、うちは原発由来はゼロの電力会社に登録している。 さて、核実験という深刻な負の遺産の話になってしまった後で、このあとを続けるのは不謹慎な気がしないわけではないけれども、シラク氏の個人的な回想に戻ります。 シラク氏は若い時、アメリカに留学し、アメリカ人のガールフレンドもいたそうで、当時のジャック青年は相当なイケメンだった。 後に若い政治家として登場した時は、「みんな、シラクがハンサムだから投票しているだけでしょう?」と冷ややかにコメントする女性もいたくらいだ。 確かに政治家としてメディアに出た当初は、特にその感は否めない感じはする。しかも口を開けば、飄々とした気さくさがある。 シラク氏がアフリカを訪れた時だろうか、現地の正装として花の飾りを頭から胸に被るようなものがあるが、その恰好で写真に写っていた。あ、いつからアフリカ部族の酋長に、とまた親近感が増した。(アフリカじゃなくて、太平洋の島だった!爆) Libération Mardi 2 septembre 1986 リベラシオン紙のFlorence Decamp記者の記事と一緒に載った当時、首相のシラク氏の写真。1961年からフランスの海外準県として統治される太平洋のワリス・フテュナ島を1986年9月1日に訪問した際の写真。記事の中では、シラク氏訪問とともに初めて飛行機がやって来ること、病院の再建、電話の改善、テレビ番組の選択肢が増えること、フテュナ島には電気が供給されること、などが書かれてある。島の人々にとってはシラク氏を伝統の衣装に包み迎えることが最大の敬意だったのだろう。 夫は、昔の大統領選挙のさい、テレビ対決で見せたミッテラン氏とシラク氏の話し方の品格の高さに驚いていた。もう今は誰もあんな大人の品格で話す政治家はいないよ、と。確かに二人とも落ち着いていて、低い声で談話し、皮肉にもゆっくりとしなやかな話し方で対応している。 が、話している内容は、若いシラク氏(当時、首相)が過去のミッテラン氏の能力のなさなどを攻撃し続け、最後にミッテラン氏(当時、大統領)がそろそろ未来を見据えた話題にしましょう、と言って一本勝ちのような内容。 シラク氏夫妻は二人のお嬢さんに恵まれた。が、長女は病弱で自殺未遂もおこした。 次女クロードさんは俳優のヴァンソン・リンドンと10年間の交際をしたそうだが、初婚相手は大学講師兼フィガロ紙の経済研究部のディレクターだった。26年前である。が、新郎は結婚からわずか7か月後に自殺。34歳。この男性の母親は自殺説を否定している。一人息子だった。 クロードさんはその後、ベルギー生まれの柔道家と交際し、息子が生まれたがその後、別れ、2011年に再婚をしたそうだ。クロードさんは父親の政治活動のサポートに徹した時期があり、よくテレビに映っていた。 さて、 1987年か1986年か忘れたけれども、パリのはずれの高級住宅地区Neuilly sur Seineに広大な草地があり、普段は時々馬が走っていそうなその場所に大きなテントを張り、多くの人が集まり、ワイワイ何かやっていた。 たまたま通りがかっただけだが、雰囲気として誰でも参加できそうだったので、好奇心に駆られ、ワイドオープンなテントの中に入って見た。 テントの下にはたくさんのテーブルと飲食物があり、主にスーツ姿の多くの若い男性たちが座り、時々、大声をあげて甲高く笑っていたり、恐ろしく賑わっていた。酒の勢いもあるのか、やたらエネルギッシュだった。宴会会場のような感じ。ややドン引き。意外なフランス人像? 奥には大きなステージが設けられ、そこでいろんな人が次から次に壇上に上がり、その中にテレビでよく見かけたシラク氏もいた。と、言うより、それはシラク氏の演説のために設けられた会場だった。 と、言うわけで初めてフランスの政治家の演説を見聞。当時はシラク氏は首相だったはず。 シラク氏の演説は少しづつテンションがあがり、実に情熱的だった。よく考えてみれば、シラク氏も当時は54歳くらいだった。 さて、シラク氏が壇上から去ると、大きなスクリーンにマドンナが映り、マドンナの歌で会場がまた盛り上がっていた。確か、当時、マドンナはエイズ基金としてフランスに多額の寄付をしたと思う。 何を話されたのかは当時の自分のフランス語能力でわからない部分もあっただろうし、覚えているのは、シラク氏を応援する男性が、「シラク氏は何も言わないけれど、アジア人の孤児を家族に迎えた人です」と言った部分はよく覚えている。 ふっと頭の中でアジア人の小さな女の子を長年思い描いていたが、実はベトナムのボート難民のすでに21歳の若い女性だった。実際は彼女はシラク家に2年間住み、養女となったわけではないが、フランス語教育などを受けさせてもらったそうだ。彼女の中では、シラク氏夫妻は、パパ、ママと呼ぶほどの存在だとインタビューに答える様子が映っていたのを最近になって観た。 シラク家の家庭に関するドキュメントの中には彼女は登場しない。家族として認識はされていない印象。ひょっとしたら、シラク大統領夫人と次女のクロードさんの検問が入ったものだったかも知れない、と自分は想像していた。 このドキュメントに関して視聴者からの批判的なコメントなどもあったらしく、後日、当のベトナム人女性もどことなく残念そうにしているイメージが映っていた。 が、実際はどうなんだろう。むしろ、ベトナム難民を救った優しいシラク大統領夫妻だった、のような良い話を政治利用したのではないか、と思われる方がいやだ、と思われたのかも知れない。 実際、私が偶然遭遇したシラク首相時代の会場でも、シラク氏はその話を自ら明かしてはいない。 ベトナム人難民女性に大きなチャンスを与えたかっただけで、そのほかのことは彼女を静かにしておいてほしい、決して政治利用ではない、という思いだったのかも知れない。 シラク氏が大統領を退き、サルコジー氏に譲ってから、ある映像を見た。 それが大変ユーモラスだった。しっかり、おじいちゃんになったシラク氏。 シラク氏の夫人ベルナデットさんがこれから何やら演説をしようとしていた。 夫人の後ろにはたくさんの人が座り、中に少し若い時のオランド元大統領もいる。 夫人のほぼ真後ろにシラク氏が座っていた。 と、金髪の長い髪の女性が現れたが、彼女の席がない。 シラク氏は彼女に話しかけ、その内、手を取り、 Vous ne restez pas debout. 立ったままなんてだめですよ。 そして、ほかの人たちに話しかける。 Apportez la chaise. 椅子を持ってきてください。 傍目には堂々とナンパしているように見えないではない。 その光景を呆然と眺めるシラク夫人ベルナデットさん。 椅子はどうやらちゃんと運ばれたようで、夫人は Bien. 「良かろう」とばかりに 演説をする方向に身体を戻し、演説を始めた。 が、その真後ろでニコニコ顔のおじいちゃんシラク氏は親し気に金髪の女性に Vous savez. Les Femmes. Il faut se méfier. 女の人たちはね。わかるでしょ。警戒してかからないとだめなんですよ。 (このセリフ、夫が妻のことを指してあきらめがちにモノローグでよく使う) なんてセリフをニコニコしながら話しかけ、金髪の女性もシラク氏の耳に何やら ひそひそ話をしている。シラク氏はご機嫌そうに愛くるしい笑顔を見せている。 夫人がいたって生真面目に演説を続ける後ろで二人はひそひそ話が止まらない。 が、ハっと気がついたかのように真面目な顔で夫人を見上げるシラク氏。 それは後ろでいつまでもお喋りが止まらないシラク氏に注意せんばかりの 厳しい眼差しで夫人が唐突に無言で振り向いたからである。 学校の先生に睨まれた感のシラク氏の、あ、やっちゃった、みたいな表情。 黙りこくったシラク氏を一瞥してデスクに顔を戻し、演説を再開する夫人。 シラク氏が11歳の時に母親に書いた手紙の中に、 「僕は自分でもなかなか直すのが難しいと思うけれど、この性格を直すように努力します」 と言うのがあったけれど、ああ、変わってないのでしょう。 と、ふと思ってしまった。(笑) 演説を終えてシラク氏の横に無言で座るベルナデット夫人。 シラク氏は口を堅く閉じたいたずらっ子のように神妙な顔つきで夫人を一瞬眺め、 横に座った金髪の女性に、にこっとしてみせる。 なんともお茶目なシラク氏だった。 上記のお茶目なお話しは、Youtube で "Jacques Chirac gaulé par Bernadette" を検索すると閲覧できます。 金髪の女性は何者か、愛人か、などと後日報道されたが、 彼女はシラク夫人もよく知る人で、この説はすぐに消えた。 いろいろ書いてしまった。 一つの時代が終わったんだなあ、と思ってしまう。 シラク氏のご冥福をお祈りいたします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 30, 2019 11:11:51 PM
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