カテゴリ:スピリチュアル
今朝、ひとしきりネット内回廊をしてて見つけたOSHOの言葉
和尚 ~ Showering Without Clouds ~ 『意識の境地はふたつしかない ひとつは愛 もうひとつは愛の不在だ いわゆる俗世は 愛のない意識の境地だ 愛を欠いて存在を見る時 それは俗世として写る あなたの目が愛に満ちているとき それまで俗世と写っていたものは 突然一瞬にして神聖になる 俗世は現実ではない だが 神のまた現実ではないということを理解しなさい それらは単に 存在の二通りの見方だ 愛のない目は俗世を体験し 愛に満ちた目は神聖を体験する 問題は何をみつめるかではなく どうみつめるかだ 』 この本はルーぅも大好きでもっています。 フリーページにも書きましたが、 女性の覚者サハジョについて主に書かれてる本。 こんな事もOSHOは言ってたのね。と 改めて思う。 昨日から、またなんだか、UPDOWNの荒波に乗って さまよっている自分がいて、そうして目覚めた朝は ものすごい”青”の中だった。 ああ。 とためいき。 昨日の夜は、帰りの国道 ひた走りながらクラーィ顔して、「ツイテル、感謝します」、 って言いながら、そこのガードレールに突っ込みたい気分だった。 それでも、ツイテルっていわなきゃ、と もがいてる自分がいた。 そんなこんなで、帰りついてネットを見て 友人がSNSから去ると言ってた。 もし、昨日のあの晩、本当にガードレールに突っ込んでたら ここにある日記やSNS内にあるコメントってどうなのかな、 なんて考えていて、残して後にむなしく残るのもどうかなー、 などと、いらぬことも考えていた矢先だったので、 ちょっとびっくりした。 いつ訪れるかわからない死が、 いつもあるのだから、こういうところに残されている 私というものの残像を、どのようにしておこうか、、、 なんてことを、昨日ガードレールをみながら思っていた。 そんな中、去っていくと言っている友人。 ま、彼女の場合はそういう私のような発想ではなく、 もっと別の形での愛の表現をしたい、ということらしい。 それがどんな形として表現されるのか、私にはよくわからないけれど、 また、どういう変化がおきたのかも知りようもないのだけど、 私も、ネットに残しているもの、について考えていた矢先だったので、 ちょっと、ハッとしたのでした。 到底、女神のような彼女の境地とは及びもつかないし、 彼女のページはいつも光に満ちていて、神にちかかった。 それでも、過去のもの、と言っていて もっと先へすすんで行こうとしてるのかな。 私のページはガラクタのページ。 今はそれでいいと思っている。 でも、いつか、これもすべて葬り去る日が来るんだろう。 多くのマスターたちが 書かない、講演をしない、と言ってることに 近いのかな、とふと、彼女については思った。 ガラクタが出きっちゃうまで、まだまだ私は 訳のわからぬ他愛もないことをかきつづるんだろうな。 ちょっと、脱線しちゃってるけど、 『問題は何をみつめるかではなく どうみつめるかだ』 というように、 どう見つめるかによって、すべてのものに愛をみるのでした。 愛の不在と、愛の境地のはざまで 大波に飲み込まれそうになりながら航海している私。。。 ふぅ。Huuuuu. 感謝します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Dec 1, 2005 12:12:54 PM
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