カテゴリ:スーフィズム
イブン・アラビーの存在一性論の中から「創造の方法」について。
創造の「方法」は「三性」として考えられる。 一という数は完全であり、あらゆる表現を超越している。 この数はあらゆる数の起源であり原理である。 それゆえ最初の奇数は一ではなくて三である。 三は単一性のレベルとして考えられる。 単一性とは「知識をもった」絶対的存在である。 「知識を持っている」とは、必然的に知る者、知る事、 知られるもの(知の行為者、行為、知の対象)の三つを含有する。 創造は絶対的一者が単一性をもった瞬間にはじまる。 この単一性はもうひとつの三性をもち、 この三相が創造のプロセスに参与する。 第一に、絶対的一者が顕現の方向に動くにつれ、 その中に自己知識が生じてくる。 このとき、アーケタイプ、すなわち神名と属性が 神の意識の中にあらわれる。 自己意識(知る者、知る事、知られるもの)意志、神命の三性は 行為者にかかわるだけであり、これだけでは何の効果も生み出さない。 行為者が効果を得るためには、受容者(知られるようになるもの)の側にも それに対応する三性の認識がなければならない。 創造は、能動的、及び受動的な二つの三性が一致するときにのみ 現実態となる。 イブンアラビーはこれを以下のように表現する。 粘土(知られるもの)からものを作っている職人(知る者)を見る人は、 職人の手の中にある粘土が単に受身であり、何の動作ももたないという 表面的な観察を行うかもしれない。 つまり、実際には粘土が、積極的に自分の側から 職人の動作を決定しているのであるという事実を見のがしている。 確かに職人はさまざまなものを作り出すことが出来る。 しかし、何を作るにしても、粘土そのものの本性によって 制限された限界を超える事はできない。 いいかえれば、粘土の本性自体によって、 現実態となることが可能な形体というものが決定されるのである。 抜粋 スーフィ・イスラムの神秘階梯[平凡社] 世界の全体は、ひとつの鏡であると知れ。 その粒子のひとつひとつの中に、 百の輝ける太陽がある。 もしも、汝が一滴の水の「心」を切り裂いたならば、 百のまじりけのない大海が外に流れ出るであろう。 もしも、汝が砂の一粒、一粒をよく眺めるならば、 その中に何千もの人間を見ることだろう。 彼らにとっては、蚊は象のような大きさであるし、 一滴の水は、ナイル川のごとくである。 その中では、一粒の麦は百回の収穫にも等しい。 一粒、一粒のきびの「心」の中にも 世界全体が宿っている。 一匹の蚊のうちにも生の大海が宿っている。 目の瞳の中にも天がある。 「心」の一粒が、どんなに小さくとも、 そこは両世界の主が在す場所である。 非存在は鏡であり、世界は鏡の中の像である。 人間は、その像の目であり、 その中に身体は隠れている。 汝は像の目であり、神は目の光である。 誰が万物を見る目を見た事があろうか。 世界は人間となり、人間は世界となった。 これより明らかな説明はない。 汝、もし行為の根元を見るならば、 神は見るものであり、見られるものであり、 見る行為そのものである。 聖なるハディースは、このことを宣言した。 そして、見ることなしに、また聞くことなしに、 それを明らかにした。 マフムード・シャビスタリー「玄秘の花園」 Mahmud Shabistari (1320-21没)イランの神秘詩人 イブン・アラビーの「存在一性論」思想を詩にあらわした。 抜粋 スーフィ・イスラムの神秘階梯[平凡社] 汝、道に迷った粒子たちよ、来たれ。 汝の中心に近づけ。 汝が見た「永遠の鏡」となれ。 広大な暗黒にさまよっていた輝きよ。 汝の太陽に帰りきたれ。 アッタール「鳥の言葉」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Dec 9, 2005 02:49:44 PM
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