カテゴリ:スーフィズム
Osho講話を聴いていた。
その中で、このワンフレーズが耳にとまった。 「Jesas says , Come and Follow me,,,but buddha says, Come and see...」 [ジーザスは言った、おいで、そして私についてきなさい。 だが、ブッダはこう言った、おいで、そして 観なさい。」 ああ、そうだな。 その二つは、明らかに、ちがう。 ブッダの言った言葉のほうが、もっと実際的だ。 突き放した感はあるが、 "来て、そして 観ろ、" と、ただそれだけの言葉には力がある。 もし、これが、スーフィーだったら、一体なんと言ったのだろう、と ふとその時、思った。 私なりに、思い出したのは、、、 間違っているかもしれないが、 もしかしたら、Come, and be かな、、、 それとも、、、?? と、思っていた。 いろいろ思い浮かんだけど、やはり、真っ先におもうのは、 Come and be. おいで、そして、在れ、もしくは、為れ。 スーフィは皆一様に、それと同化しそして一瞬にして消滅する。 アラビックでいえば、KUN だ。(BE) 同化といっても、ありきたりの同化とはわけが違う。 なににも隔たれていない、分かたれていない、という意味での同化だ。 汝まさに鏡のごとし、というわけである。 クン(Be)、というマントラの強烈さは、 体験してみると実感できるだろう、と思う。 一晩中、クン、クン、クン、クン、、、クン、、、と唱える。 すぐさま、消滅さながら、なにかに消え行く感覚がやってくるだろう。 そして、それとともに力強い、Willness, 選択することの自由を知るだろう。 スーフィーは分かたれていない。 すべてがそのひとつに、含まれるのだ。 なんでもかんでも、それもそれ、これもこれ、とひとつに統合する。 ん、ん、、、うまくいえないけど。 そんなことを思いおこしていると、おなかが鳴った。 ああ、そういえば、なにも食べていない。 断食していた時の記憶がやってきた。 病気をわずらっていたとき、断食を10日間したことがある。 とは、いっても、重湯とお茶と梅干を取っていた。 半断食法である。 あの時に感じた、あのすばらしい感覚は、 いままでのどんな修練ともちがう、特異な感覚だった。 お酒を飲んでハイ!になっている時とも、 何かに撞かれて感情がハイ!になってる時の、どんな感覚ともちがう。 お酒やダンスに酔いしれてるときの、熱狂的な感覚では、それはまるで内側のなにかが一杯で溢れだし、乱舞したくなるようなエナジーだけれども、 断食の時の感じは、ちがうのだ、そう、まるで、何かがTOPからひっぱりだされるように、限りなくクリアーで、そして広大な感覚。 まるで、ほとんど宇宙と交信できそうなほどだ。 研ぎ澄まされていて、ツン、としている。 鮮明で、かぎりなく透明な、ふしぎな感覚だった。 スーフィーの修行僧は、月に何度か、本格的な断食をする。 独房に入って、マントラを日がな一日中唱えて、そして、祈る。 そして、旋回する。 回り続けるその姿には恍惚とした、笑みがたずさわるのは、 そのあまりの美しさにあらがうことができないからだ。 Come, And be... そんな単語がやはりぴたりと、くるような、 なんだか、やっぱり、そんな風におもう。 Be という単語も、西洋的解釈で理解すれば、 たちまち、堕落するものなんだけれども。 あるがまま。 ひとつ、 ただ、在る。 どんな風に言葉にすることが、できるものだろうか。 人は、ゆっくり、ゆっくりと、知覚の扉を研ぎ澄ましていく。。。 カラスはかぁ、かぁ、 雀はちう、ちう。 それはそうなのだ、と知るのだろう。 寓話 『文法学者とダービッシュ』 ある夜のこと、ダービッシュが道を歩いていると、井戸の中から助けを求める声が聞えてきた。 「どうしたんだ?」 とダービッシュは井戸の底に向かって叫んだ。 「私は文法学者なのですが、このあたりの道をよく知らなかったので、不運にもこの深い井戸の中に落ちてしまい、まったく身動きができないのです」 「はしごと縄を取ってくるから、’それ’に掴むんだ」 とダービッシュは言った。 「ちょっと待ってくれ!」 と文法学者は言った。 「あなたの言葉使いは間違っている。もう一度、正確に喋ってくれ」 「言葉使いが命よりも大切なら、俺が正確に話せるようになるまで、そこに居続けるがいい」 そう言って、ダービッシュは去って行った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Mar 29, 2006 02:20:06 AM
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