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走る社長のブログ「開設から18年、あの時の夢は叶えたか?」

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ハリー

ハリー

Nov 5, 2006
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カテゴリ:その他

今は母1人の実家と、妹夫婦の住む明石市

ここJR朝霧駅は、目の前が国道2号線でその向こうは瀬戸内海

300mほど東に神戸市の看板があり、明石大橋と淡路島が一望できます


061103_2241~01.jpg

 
高校はこの駅から西明石駅まで電車通学でしたので、

毎日淡路島を眺めていました


今は隣の加古川市に住みますが

3日に大阪に行く用事があり、懐かしいこの駅からパーク&ライド

再開発された湾岸に車を停めて、電車に乗り換え


歩道橋から海を見た写真です
(明石海峡大橋と淡路島)

061103_2249~01.jpg


同じ場所から歩道橋を携帯で撮影

061103_2245~01.jpg


もしかして?と思われた方もいらっしゃるかもしれません

この優しい瀬戸内海の前で事故は起こりました

061103_2248~01.jpg


2001年7月21日

あの日、幼い子供たちを連れた私たち家族4人は

ここから西に800mほどの場所で花火を見ていました

人が多くて海まで行く気になれなかったのと、

ずっと住んでた街でしたので、

ここでも充分花火は楽しめると立ち止まったのです



帰りの車で「今日はやけに救急車が多いな」

妻と話したのを覚えています



・・・・・・・

以下は各種新聞他から


死者発生現場


八時半に花火が終わった際、誠治さん43才と智仁ちゃん2才は、

歩道橋南端まで5-10メートルの西壁付近にいた。

海側へ十人以上が倒れ、智仁ちゃんの手を握って踏ん張った。

約10メートル先で十歳くらいの女児が壁のすきまに頭を挟まれ苦しんでいた。

「じっとしとくんやで」。智仁ちゃんにそう言い聞かせ、

壁際を縫うようにして駆け出し、女児を無事に助け出して、

周りに倒れた人たちも何人か救出した。

この間、二、三分。人波で一瞬Tちゃんの姿を見失い。

智仁ちゃんがいた場所には、三、四人の見物客が折り重なっていた。

見つけ出した息子の顔は、すでに紫色に変わっていた。

(子供を亡くした誠治さん43才、読売7月25日)


誠治さんの近くで人垣が崩れ、悲鳴が上がった。

「智仁、ここで待っとれ」。誠治さんはとっさに、

智仁ちゃんを安全に見えた橋の通路の少し引っ込んだ所に置いて救助に向かった。

その直後だった。母に手を引かれていたM君が

「ああーっ、智仁ちゃんがめちゃくちゃに踏まれてるよー」と泣き叫んだ。

智仁ちゃんは父の後を追い掛けていた。

「しまった」。

誠治さんは必死に群衆に巻き込まれたわが子のところへ戻ったが、

智仁ちゃんは既にぐったりし、人工呼吸の甲斐もなかった。(共同通信7月23日)

歩道橋を渡り始めたころは、

姉のHちゃんとベビーカー2台を並べて十分に歩けた。

ところが次第に人波が増し、危険を感じてベビーカーをたたみ、

SちゃんはY子さんが抱き上げ、Hちゃんは手すりの下にいれながら一歩、

また一歩と進んだ。

階段まであとわずか5メートルとなった時、

Y子さんが突然、後ろからのしかかられた。

弾みで、しっかり胸に抱いたはずのNちゃんは前にふっ飛ぶ。

手すりに上り、必死に探すJさん。

幾重にも折り重なった”人の山”の中にのみ込まれ、

踏みつけられたNちゃんの姿を見つけたのは、しばらくたってからだった。

(読売7月29日)


夫与一郎さん(74才)妻律子さん(71才)夫妻は、

この日、地元の老人会のメンバー(いずれも女性)3人と、

計5人でこの花火大会に出かけていた。

「JR朝霧駅前に着いたのは7時40分ごろ。花火打ち上げ開始直前でした。

歩道橋はすでに人でごったがえした状態で、

歩道橋の真ん中あたりまで進んだところ、花火の打ち上げが始まりました。

海岸で見物したかったんですが、なにせ人の列が動かない。

しかたなく歩道橋から花火を見上げていました。

歩道橋は異様な暑さで、したたり落ちる汗を何度もぬぐったのを覚えています。」

(与一郎さん)。

「8時30分ごろ、私たちは歩道橋の海岸より

3分の1ほどのところまで進んでいました。

ところが花火の打ち上げが終了すると、

海岸にいた見物客がいっきに駅に向かいはじめたんです。

人と人のすさまじいぶつかり合いでした。

体が何度も左右に揺れた、と思ったら、

今度は両側からプレス機で押しつぶされるような強烈な力がかかる。

妻はすぐそばにいた幼稚園児ぐらいの子供をかばおうと、

両手を伸ばし必死で押し寄せる人の波に抵抗していました。

近くには自分の頭の高さまで我が子を持ち上げて守っている母親もいました。

でも、腕がしびれたのか、両腕がだんだん下がっていくんです。

それを見て妻は、『だめ、子供が死んでしまう』と叫んでいました」

(与一郎さん)。


歩道橋上ではあちこちから悲鳴が上がった。

「助けて!」「戻れ!」「死んでしまう!」。まさに地獄だった。

「妻は『子供が死ぬよ』と悲しい表情でつぶやきました。

それが最後の言葉でした。直後、流れに押されて妻の姿が見えなくなった。

私も人波の中で倒れていました。

立ち上がって周りを見渡すと、人の上に3人も4人もの人間が乗っかっていました」
(与一郎さん)。


妻の姿を見つけられなかった与一郎さんは、

いったん自宅に戻り、妻の帰りをまった。

そして夜中の2時ごろ、テレビで妻の死を知った友人の電話を受けた。

「妻が必死で子供をかばっていたとき、

警察官も警備員も歩道橋にはいなかった。

事故前、4~5人の警備員を歩道橋の端で見かけましたが、

見物客の若者に怒鳴られると、すごすごと逃げていった。

本気で警備や誘導しようとする気なんてなかったと思う。」

(与一郎さん)。(Friday2001.8.10)



救命活動状況

あの日、妻と生後九ヶ月の息子の三人で見に行った。

花火が終わった後、歩道橋があまりに込んでいるので、

歩道橋の南側で待っていた。

将棋倒しが起きた後、歩道橋の下で女性が

女の子を人工呼吸しているのを見つけた。

『医者です。ちょっと見せてください』と言って

あごを持ち上げたら自分で呼吸をし始めた。

汗をかいていて体が熱かった。熱射病かなと思い、

『だれか氷を』と叫んだら、近くの屋台のおっちゃんだったかと思うが、
氷を持ってきてくれた。

そのとき赤ちゃんが人工呼吸をされながら下りてきた。

妻(看護婦)が心臓マッサージをし、私が人工呼吸をした。

救護所のようなところでは、年配の女性と男の子も心臓マッサージをされていた。

救急車が来たのは、それからすぐだったように思う。

乳幼児二人と女性の三人が乗せられ、私も同乗した。

救急車は神戸市消防局の車だった。

なかなか出発しないのでいらいらした。

明石市の応援要請で来ているので、

明石の要請がないと搬送先が決められないという。

『そんなことしとったらいかん』と思わず怒った。

震災のとき、地域の枠を超えて広域救急体制をひかんとあかんという

教訓があったはずなのに、生かされていないと思った。

もちろん、受け入れる医療側にも問題はある。

思い症状の患者が一度に運び込まれても、

当直医だけで対応しきれない病院も多いだろう。

搬送先の指示を待つのが決まりではあるが、

緊急事態の対応としてはどうか。

救助隊も早く搬送したかっただろうが、自治体側、

受け入れる医療側ともに、

非常時の救急医療マニュアルが機能していなかったと思う。


もどかしくて、『自分の病院に運ぶ。いいから早く出してくれ』

と無理矢理、発車させてしまった。

医師として一番ジレンマを感じたのは救急医療の広域支援体制の問題だが、

それ以前に、主催者側の警備体制と、緊急事態が起きたときの対応の問題は大きい。

車の渋滞や人ごみは十分予想できることで、

救急車の到着が遅れるのも想定の範囲内だ。

救急医療の協力体制は、神戸市や近隣自治体を中心に

早急に確立しなければならないと痛感した。

最初の五分、十分が救命救急にとってどれだけ貴重か。

その認識があればもっと違う体制がとれていたはずだ。

この事故を教訓にできるかどうか。医療側も教訓にしなければならない。」

(神戸市西区医師35才、神戸8月6日 証言)



救命活動状況

「『何でや』。気がおかしくなるほど私は取り乱し、

彼(智仁君)を抱いて口から息を吹き込みながら橋の下へ、

そして救急車の入ってこれる所まで先導されて走った。

しかし、救急車はいなかった。

路上で懸命に人工呼吸を繰り返した。

そこには六名の子供たちが運ばれていた。

看護婦さん、お医者さんがたまたま居合わせ、私

を励まし、懸命に六名を手当てしてくれた。  

やっと救急車が到着したが、酸素マスクは一つしかない。

三人の子供が救急車に乗せられたが、

智仁の口にはマスクはなかった。

救急車はそれから病院を探すため、

いっこうに現場から出発せず、時間だけがたっていった。

ようやく明舞病院への搬送が決まったが、

渋滞でなかなか病院にたどり着くことはできない。

着いてからも医師の数が足りず、

二十分くらいたって初めて智仁のところにやってこられたが、

『もう手遅れだ』の一言だけで処置は終わった。

私はそれでも彼の胸を押し続け、息を吹き込んでいた。

看護婦さんに『もうそれ以上したら、ろっ骨がつぶれてかわいそうだから、

ゆっくり寝かせてあげなさい』と言われたとき、

私は手を止めることしかできなかった。」



(事故四週間後神戸新聞に手記を寄せた下村智仁君の父誠治さん、神戸8月19日)



あの日この橋で11人の命が奪われた






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最終更新日  Nov 6, 2006 03:53:43 AM
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