テーマ:戦争反対(1190)
カテゴリ:ニュース
祈。 毎年毎年、8月が近づくと、広島はヒロシマへと変貌する。 私は、私たちは、言いようのない悲しみと重苦しさに襲われる。 そして、私は、8月6日のTV番組欄に溜息をつく。 沖縄の日、2つの原爆忌、終戦の日。 この4つの日だけは、 全国民が服喪する、鎮魂の日でありたい、と こころから想う。 それは、鎮魂の想いとともに、2度と過ちを繰り返さないために。 己れが、あの戦争を経て、今、自分たちが生きて在れることに感謝するために。 強制ではなく、皆が自然にこころからそう思える。 手を合わせる想い。 頭を垂れる想い。 そんな国であるためには、何をどうして、どう在ればいいのだろう。 今年は、声をあげてくれた職場の後輩のお蔭で、 平和を祈念し、7人全員で折鶴を折り、 きっちり千羽 の 千羽鶴を捧げることができた。 不見識な輩から折鶴に放火される事件が相次ぎ、 現在、『 原爆の子の像 』の足元には、ニッポン全国は元より、 全世界からの折鶴を収めるブースが備え付けられている。 私たちの折鶴は、本日6日早朝、そのブースの1番左端に、 自転車通勤の後輩が代表して捧げてくれた。(謝) 鶴を折ったから、といって、何がどう変わる訳でもあるまい。 けれど、戦没者を悼み、平和を願う、 民草の祈りのこころが込められた折鶴のひとつひとつに。 それを折っていく過程において。 それを形として目にする、その瞬間において。 祈りのこころは共有され、ひとは想いを新たにし、 また、一歩、前に踏み出して歩いていけるのではないか。 想いを等しくするひとびとの愛(かな)しい想いに背中をおされて。 毎年、同じ言の葉になってしまうことがまた悲しいのだが、 オキナワ、ヒロシマ、ナガサキが、 遠い過去の歴史物語として風化し、 忘れ去れられて行くことの恐ろしさをこころから憂う。 誤解していただきたくないのは、 何が何でもヒロシマ・ナガサキを特別視して欲しい訳では決してないということ。 あの戦争で、失われたいのちは、全て等しく同じ。 戦地で落とされたいのちも、空襲の被害にあわれたいのちも、 飢えて落とされたいのちも、 操を守れと教えられ、自死されたいのちも。。。! しかし、被爆者の染色体にまで異常を起こさせる核の被害は、 一過性のものではない、ということで確かに特別なものであり、 全世界において、2度と決して許してはならない、人類の過ちである。 被爆者は、被爆者、というだけで、その子孫まで 様々な偏見、差別、不安をも背負わされてしまうのだから。 ひとつのいのちについて考えることは、 多くのいのちについて考えることにつながる。 ヒロシマ・ナガサキを過去の悲劇に終わらせてはならない。 「 戦争被害 」の象徴としてとらえ、考え続けて行かねばならない、と思う。 広島市から離れたこの地では、 平和教育に力を入れる広島県の教育が『 偏向教育 』である、という 文科省の是正指導以来、 原爆や戦争については、実体験者でなくては語れない、と封印し、 そのくせ、小学校の社会見学コースから平和公園が外され、 中学校の修学旅行は、沖縄ひめゆりの塔から東京TDLになった。 「 戦争反対 」と言った瞬間に、それは「運動」となり、 「思想」というベクトルを持つものであるから、 教師は、口にしてはならないのだ、と、言う。。。。。 2度と同じ過ちをしない。 そう祈る、ことは宗教なのか? 願う、ことは、過激な思想なのか? 決意すること、は、「右」やら「左」やらを決定することなのか? 否。 風化させない。 それぞれのひとびとが、それぞれの立場で。 さまざまな観方をし、とらえ、 それぞれの平和について、考え続けられるように。 にんげん、として考え、思惟を重ね。 そして できること を できる形 で。 前に。 前に。 ● 『 夕凪の街 桜の国 』 ● 『 ヒロシマ前夜に想うこと 』 ● 『 夕凪の街 桜の国 ふたたび 』 ● 『 ナガサキの日に 』 ( 『 生ましめんかな 』 ) ● 「 みたび『 夕凪の街 桜の国 』」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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