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カテゴリ:読書
「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ)を読みました。これは、よかったです。
解説でも、そして感想を書いている多くの人が、なるべくどういう話か知らずに読む方がいいと書いているので、この感想も書きにくいですが。 でもきっと、私もそうだったように、クローンの話ということぐらいは知りたくなくても知って読むことになるのでは。 臓器提供のために生み出されたクローンたちの話です。 こう書くとSF小説のようですが、そのような色合いはまるでありません。 主人公キャシーの回想という形式で話が進みます。最初は、一人の介護人の独白というだけに思われますが、ん、今の文章はちょっとよく分からなかった、という引っ掛かりが出てきて、次第にどういうことか分かってきます。 主人公に奇異なところはまるでなく、物事を理路整然と考えられ、感受性の豊かな、普通の一人の女性として描かれているので、実は…ということが分かっても、ぞっとする気持ちにはなりませんでした。 少し前に、朝日新聞で浅田次郎がどこか外国の女性作家と対談をしていて、その中でその女性作家が、「歴史上の出来事を書くときは調べられるだけ調べつくした上で、その調べた内容については小説の中で書かない」というようなことを言っていました。 たとえば、客船での航海が外国への主な手段だった時代には、暗い船倉で人々は靴をはかなかった、ということは、当時の人たちにとっては言うまでもないことだから、そのような説明は書かない、と。 そういう手法が、この小説でも取られていて、読んでいると話し手にとって当たり前の世界を理解しようという姿勢に自然となっていました。 彼らは小さい頃から施設で集団生活を送ります。 保護官と呼ばれる先生に、自分たちの「使命」の話を聞いて育ちます。 高校生ぐらいになると外の世界に出て、やがて介護人になり、提供者となって使命を終える。 もちろんクローンでない人間から見ると、空恐ろしい、不気味な存在なのですが、この話を読んでいるとそのような気持ちにはなりません。私たちと、いったい何が違うのだろうと思いました。 たとえば、閉ざされた世界で生きること。若者らしい将来への夢と、漠然とした不安。外の世界に出たときの不安や戸惑い。どうにもならない運命を受け入れるときの、諦め。 そういった、普遍的な事柄が描かれているように思いました。 臓器提供のために生まれたクローンではなくても、不慮の事故などで臓器提供をすることになることもある今の世の中です。 人間に限らず生物はみな、ある時間生きて、やがて死んでいくことに変わりはありません。 その結果だけを見れば、結局何をやっても無駄なのかもしれませんが、私たちはそうは考えず、一生の間にいろんなことをします。 その中で、達成感を味わたったり友情を感じたりして、人生が豊かなものだったと感じて満足できれば、最期が来ても納得が出来るのではないでしょうか。私も、子供の頃当然と思っていたものが何も出来ないままの人生ですが、最初からそうとわかっていたら、今とは全く違った人間になっていたのではないかと思います。 この小説を読みながら浮かんだことは、そういう、クローンではない人間のことについてでした。 さらに、主人公たちを私たちの人生に置き換えるだけでなく、人間に利用されるために作られた動物はどうだろう、とも考えました。 人間と同じような感情があると考えることも、人間のエゴかもしれませんが。 そして、私たちから見ると、外の世界に出たのなら、何故外国など遠くに逃げないのか、何故なりたいものになろうとしないのか、と疑問に思うのですが、登場人物たちはそのよな考えは浮かばず、諦めています。 それは、小さい頃から少しずつ時間を掛けて、当たり前のこととして教え込まれていることによるのかもしれないと思いました。 また、そういうことも出来得ると知っていなければ、考えも及ばないものなのかもしれません。 物心ついてから子供の頃に教え込まれたことを、私たちは基本として生きていて、一人の人間が一生のうちに経験できることや知ることが出来ることは、高々限られているのだ、ということを、改めて思わされました。 昨日の夕方、編み物をしていたら急に手のひらの一部が痒くなり真っ赤になって、どうやらまたヘルペスのようです。ちょっとのことで、いろいろ不便。もう飽き飽きするゼイ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.10.25 14:04:14
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