|
カテゴリ:読書
「緋色の迷宮」(トマス・H・クック)を読みました。
最近読んだ本の中で、飛びぬけて面白かったです。 毎度のことですが、何も手につかず一気読み。 これまでに読んだこの作者の小説は、昔の出来事を回想する形式のものが多く、描かれる時代が何十年か前でしたが、今回は幼女への病的な指向や、パソコン内の画像、家族関係など、イマドキの事件が扱われていています。 何ひとつ問題のない、円満な家庭を築き幸せそのものの生活を送っていたが、ある日突然息子に少女誘拐や殺人の嫌疑がかけられ、息子への疑いの気持ちが生まれると、これまで完璧に思えていた家族関係への不安が次々に広がり、破綻していく、というような話です。 事件を追う刑事を描くのではなく、被害者やその家族でもなく、被疑者の父親の目からの世界を描いている点が新鮮です。 どうも怪しいという要素がいくつも浮かび上がる中で、父親の気持ちが激しく揺れ動く様子が詳しく描かれています。 この父親が現実を直視するのを避けようとする姿勢は、私の父親にも重なるように思いました。 「最後に息子と話したのはいつだったろう?もちろん、夕食の席で話をしたり、廊下ですれ違いざまに短い言葉を交わしたりはした。だが、それではほんとうに話をしているとは言えない。ほんとうに話をするというのは、自分たちの中にある様々な希望や夢を語り合うことであり、見せかけをかなぐり捨てて、たがいの顔を光のなかにさらけ出すことだ。それは人生について語り、どう生き抜くか、どうやって人生から最良のものを引き出し、その過程で何を学んでいくかを話し合うことだ。」 という文章かありますが、ウチの場合、こういう意味の真の話し合いを私は生まれてこの方一度も父と交わしたことがありません。 そういう会話がないならないで、それでもなんとかなっていた時は、こういうことに気づくこともありませんでした。 でも私の具合が悪くなって、仕事を辞めなければいけないとかどこでどういう治療を受ければいいか考えなければいけないとか、人生で一番の危機というときに、目の前で起こっていることが見えないふりをする人だということに気づいてからは「夕食の席で話を」することも「廊下ですれ違いざまに短い言葉を交わ」すことも、しません。 そういうことだけをして、ツツガナクやっていくことは、私の存在をないがしろにすることだと思うからです。 そんな風に、読者一人ひとりが、自分の家族や身近な人のことを頭に浮かべながら読むのではないかと思います。 主人公の父親は、現実から逃げてばかりではダメだと、真実を追求しようとするのですが、まずは偏見を持たず事実を聞き出すべきところを、憶測ばかりで妄想が膨らんでどんどん周囲の人が信じられなくなっていきます。 読者としても、それらの憶測や妄想は現実にありうることのように思え、それが真実なのかもしれないという気にさせられます。 実際、この現実の世界でも、日々私たちはこのように憶測の世界に生きているのだと考えさせられます。 それと同時に、何故こんな風に親しい人を次々疑ってしまうのだろうか、ということも考えさせられました。 それは、この主人公が自分自身に自信がなく、そのため自分の判断力に自信がないからかもしれない、という気がしました。 ここに描かれているさまざまな心の動きは、誰にとっても日常的で身近なもので、どの時代にも関係なく普遍なものなのだろうと思いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.03.10 16:36:57
コメント(0) | コメントを書く |