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カテゴリ:読書
「心臓を貫かれて」(マイケル・ギルモア)を読みました。
このタイトルも、以前新聞広告で何度か見かけていたものでした。 私はこの訳者の作品が好きではなく、というか世の中でなぜこれほど持ち上げられているのか理解できずにおり、名前を見聞きするたび違和感を覚えるので、逆にそのひっかかりでこのタイトルも記憶に残っていました。 それにしても、この本が出たのはこんなに前だったかな。 私には今から思えば何も出来ない状態だった期間があって、その空白を埋めるように何年も前の本を読んでいるようだ、と最近思います。 作者の兄(4人兄弟の2番目)は、ゲイリー・ギルモアといい殺人犯として死刑となった人物。 当時アメリカでは、世界的なリベラルの流れから数年前に一時死刑制度が廃止され、その後76年に復活したものの、まだ実際には執行されずにいる状態であったが、ゲイリーは自ら死刑を望み、銃殺刑を希望して、77年に執行された。 世の中はこの執行の前から大騒ぎとなり、その後も長らく人々の記憶に残ることになって、歌に歌われギャグに使われ、生前のゲイリーを独占的に取材したローレンス・シラーを介しノーマン・メイラーの「死刑執行人の歌」という作品が生まれ、これが映画になるなどした。 この本は、ゲイリー・ギルモアといえばどういう人物でどういう事件を起こしどんな結末を迎えたかを、一応ひと通り知っている世間に向けて、後年末弟が家族からの目線で、そこに至るまでの様々な出来事をつづったもの。 そのため、事件そのものや被害者についての詳しい記述は控えめで、主に、家庭の中での出来事が描かれています。 家族の系譜は母方の祖父母あたりから始まります。モルモン教とユタの歴史、その「血の贖い」という教義について。 両親の出会い。父とその母親の謎や、父のめちゃくちゃな人生と、凄まじい暴力について。 やがてそのこども達が10代になりタガが外れたように奔放に振舞うようになる様子。 そしてゲイリーの、犯罪を積み重ね少年院や刑務所で人生のほとんどを送るようになる経緯。。 上下2巻にわたり、作者本人の記憶のほかに多くの人の協力を得、取材をして、家族の中の細々としたことが、丁寧に愛情を持って、同時に冷静に語られています。 まずは、ありきたりですが、刑罰とは何ぞや、懲らしめなのか矯正なのかということについて、考えさせられました。 今は当時よりは人権に配慮されているのだろうと、期待しますが。 また、一般に虐待という負の連鎖についてよく語られ、また、凶悪犯罪の加害者が裁判で幼少期の家庭内の暴力について語るのを見聞きしますが、そういった暴力の被害者としての体験の積み重ねが、具体的に心にどういった傷を負い、それがやがてどのような思考をたどって破壊的な人格形成に繋がっていくのかということを、初めて実感をともなって理解することが出来ました。 ゲイリーは、知的で物事の真髄をつく言葉を発し、また芸術の素養もあってデッサン力にすぐれた絵を多く遺しています。 子供の頃の様子からも、とても感受性が鋭かったのだろうと思いました。 それだけに親から冷遇され繰り返し暴力を振るわれたことは、大きな打撃となったのではないかと思います。 刑務所で一生いき続ける苦痛に耐えかねて、死刑を望むという選択をしたのは、タフさというイメージとは反対の部分の現われであったのかもしれないと思いました。 それに比べると、長兄のフランクは家族のしがらみから何もなすことの出来ない人生を送ったようですが、つらい思い出もたくさん記憶し続け、傷つきならがも踏み止まり家族を愛し続け、じつは一番タフだったということかも知れないと思いました。 この作品の中では繰り返し、「血」というものについて語られ、また家族中が「幽霊」の存在におびえ続けます。 これらは家族の大部分が悪い性質を身につけてしまうことや、不運な出来事が繰り返し起こることを指しているようです。 しかし、もちろん血液の中にそのような性質が流れているわけでも遺伝子によってそのような性質が受け継がれるわけでもありません。 この負の連鎖を断ち切るには、不条理と思える気持ちを乗り越えて、人生や人を憎むより愛さなければならないのだろうと思いました。 こうなったのは、過去にこんな目にあったからだ、こんなに酷い気持ちにさせられてきたのに、まだこんな酷い思いをし続けなければいけないのは、割に合わない、などというグルグルから超越することは、非常に難しいことだと、私自身も思いますが。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.06.20 12:02:09
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