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カテゴリ:読書
「冷血」(トルーマン・カポーティ)を読みました。
確か、少し前に読んだ「心臓を貫かれて」(マイケル・ギルモア)の解説で、訳者がこの「冷血」について触れていたように思います。 その文章を読んだ直後に古本屋でこの本を見かけたので、これは読むべし!と、投資したわけです、100円を♪ マイケル・ギルモアは、ローリングストーン誌のライターだったとはいえ、小説や文学作品の書き手としては半ば素人だったので、作品の完成度という点では、この「冷血」が圧倒的に上なのだろうと思って読んだのですが、…そんなこともなかったような。読む順番を間違えたような。 たくさんのことが盛り込まれているのですが、で、結局どうなの?という作者の考え方がよく分かりません。 この本を完成させるために、作者は5年の歳月をかけて取材をし、膨大な資料を作って書き上げたのだそうですが、作品は、犯人二人が絞首刑となったその年の内に完成しています。 つまり、事件直後から取材を始め、犯人逮捕、裁判、判決後~死刑の執行までの、一連の出来事と同時進行で作品を書くための作業を進めて、刑の執行後まだ人々の記憶に新しいうちに世の中に出された作品だったということ。 世間が、この事件に強い関心をもち、感情的に捉えていた、その渦のただ中で同じような感情に引っ張られるようにして、書き上げられたもののように思います。 そのため、物事が咀嚼し切れていないような印象を受けるのです。 また、実際にあった出来事と、作者の創作との境目が曖昧なのも、気になりました。 実際にあった事件をモデルにしてはいても、作品全体としてみると創作された小説である、ということであれば、これで構わないと思うのですが、会話の一つ一つ、動作やしぐさなどの記述などを読みながら、これは事実なのかそれとも作者の想像が補われた描写なのかと、もやもやした気持ちになりながら読みました。 しかし、この作品によって「ノンフィクション・ノヴェル」というジャンルが生み出されたといわれているそうなので、この当時の価値観からするとこの作品は非常に画期的で高い評価に値するものなのだろうと思います。 前半は、「犯人たちも確かに冷血ですごいけども、この作者もちょっと変わった性格なんじゃないの?」と思いながら読んでいました。 が、後半になって、全体の構造が分かってくると、やはり優れた小説家なのだと感嘆しました。 特に、後半の犯罪精神科の専門家による分析の引用のあたりから、この作品全体の見方が変わりました。 これといった理由もなく行われる残虐な大量殺人の、被害者となるということは、なんと残酷で理不尽なことか。 しかし、この被害の残虐性とは不釣合いだが、加害者の中にはその暴力を引き起こす、何らかの引き金が存在する。 それは、元をたどっていくと、その犯人となる人物の幼少期の境遇や体験に行き当たる。 そうはいっても、もちろん被害者にとっては関係のないことであり、罪に対しては罰が与えられるべき。 しかし、このような結末の一つひとつを、被害者・加害者それぞれ個人の不幸として捉えるだけでよいのか? また、最近の、被害者やその遺族の処罰に対する考え方を考慮するような方向の裁判のあり方や、裁判員制度での死刑の判決についてなど、考えさせられました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.07.05 14:19:03
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