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カテゴリ:読書
「ティファニーで朝食を」(トルーマン・カポーティ)を読みました。
今本屋さんで手に入るのは、村上春樹の翻訳なのです。 「斬新な新訳でおくる」ということですが、慣れるまで内容がスッと頭に入りません。1ページ目を3~4回読み直してしまいました。 ま、私には、原文のままで微妙なニュアンスまで読み取れるような力がないのだから、文句は言えないのですが。 といっても、とんでもない言葉遣いで訳してあるわけではなく、ほんのちょっとしたことなのです。 「~なのだが」とするか「~なのだけど」にするか「~なのだけれども」にするか、とか。 全体的に、主人公の語りが、「こどものままのおとな」ぽくなっているような気がします。 だんだん主人公が三谷幸喜のイメージと重なってきて困りました。猫が出てくるし。 「冷血」を読んだとき、すごいすごいと言わんばかりの描写(心理的なものも含めて)は詳しく書かれていたものの、結局作者が一連の事件や加害者をどのように考えているのかがイマイチはっきり分からなかったので、もっと作者について知れば、そこらへんが分かってくるかもしれないと思い、この作品を読んでみることにしました。 「ティファニーで朝食を」の映画は見たような気がするけど、ストーリーは全然憶えていません。オードリー・ヘプバーンのあのスタイルのイメージが強烈過ぎて。 原作を読んでみたら、ホリーはティファニーで朝食を、食べなかったのか、と驚きました。 一番気分がよくなることのイメージというか、いつか実現させたい一番素敵なことの象徴を、こんな言葉で表現するのが、ホリーという女性である、ということを、表現した言葉だったようです。 ホリーという女性は飛んでる女の子で、一見すると「おかしな子」なのですが、素っ頓狂な言動の裏にあるものが見えてくると、そのような行動にはそれなりに理由があり、そこらへんが分かってくるとより魅力的な人に見えてきます。 ただ、奔放な女性であるようでいて、結局他人に依存して生きていて、周囲の動きによって自分の人生が翻弄されてしまうわけで、小説や映画で魅力的な女性を動き回らせようと思うと、こんな人物設定になってしまうという時代だったということなのかなと思いました。 独特の透明感、女性の奔放さなど、こういう世界、どこかで読んだ気がすると思って、思い当たったのが、山田詠美です。 オリジナルはここにあったのか、と思いました。 また、たとえばホリーと別れるジョー・ベルの悲しさをちょっとこっけいに描く場面や、逃走する途中で飼い猫をいったん放したもののまたすぐ車を止めて探そうとする場面など、こういう手の筋書きは、昔トレンディードラマでよく見た気がするなあと思いました。 最近、オリジナルであることは、とても意味のあることだなと思います。 後から同じようなものがたくさん出てきて、さらにそれを発展させたものや洗練されたものが出てきた後で、それらと比べると、単純すぎたり垢抜けなかったり陳腐だったりすることもありますが、最初に考え出したりというのはものすごいことだなと。 それは、以前チャップリンの自伝を読んでいたときに、子供の頃の記憶をきっかけに生まれたある有名なシーンについての記述を読んだときも、感じました。 子供のときによく見たドリフのコントに同じのがあった!と思い当たった時に。。 新しいものを追い求めるのもいいけど、そのオリジナル、根源を知ると、今の新しいものを見てもより奥深く感じられるような気がします。 村上春樹のあとがきによると、この作者は自分自身の経験を基に小説を書いてきて、経験を書き尽くし材料が枯渇したときに、一度フィクションを離れようと冷血のモデルとなった事件を追うようになった、のだそうです。 この本には、ほかにもいくつかの短編が収められていて、私はその中で特に、「クリスマスの思い出」という作品が印象に残ったのですが、ここに描かれている世界が作者自身の幼少時代だとすれば、これはつまりどういう環境で育ったということなのだろう、と不思議な気持ちになりました。 経験を基に描いていながら、その事実関係よりも、感情や価値観や空気感みたいなものに重点を置いて、独特の透明感のある世界を描いています。 こんな書き方もあるのかと新鮮に感じました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.07.13 09:51:57
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