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カテゴリ:読書
「水の墓碑銘」(パトリシア・ハイスミス)を読みました。
こないだ太陽がいっぱいを読んだ時、自閉症的でサイコパス的と書きましたが、正直に言うとぴったりと思った言葉は統合失調症でした。これらをこのように並べて書くのは適切でないとは思うのですが。 最近ちょっと、自分の周辺にある身近なテーマとして、穏やかに自閉症的な要素を持った人が、自分でもそのことに気づかず、ただ常に漠然と周囲との違和感を持ち続けストレスを感じていたところに、環境が変わるなどしてそのストレスを強く感じるようになり、それを引き金として統合失調症になる、ということはあり得るんだろうか、てなことを考えていて。 つまり、よく自閉症と統合失調症は間違えられ誤診されがちと言うけど、片方は持って生まれた人間の性質であり、もう一方は病気なのだから、両方が並存することもあるんではないかと。 ま、本の感想でこんなことをグダグダ書くこたぁないんですが。 ただ、太陽がいっぱいには直接出てこなかった精神分裂病という言葉が、この小説では何度も使われていることに、かなり驚いたのです。 今回の主人公ヴィク(ヴィクトリアではなくヴィクターつまり男性)の妻メリンダは、次々に新しいボーイフレンドを作っては家に連れてきて派手な生活を送っている。 ヴィクは理解ある夫として紳士的な態度を崩さず、町内の付き合いでも隣人たちにできた人という評価を得ている。 しかしあるパーティでメリンダのボーイフレンドをプールの中で殺してしまう。 またしばらくして、新たなボーイフレンドも、採掘場で石を投げつけはるか下の池の中に沈めて殺してしまう。。 そこにいたるまでや、一線を越えてからのヴィクの心の動きの描写が、非常に読み応えがあるものとなっています。 たとえば。 初めのうちは、妻が別の男性と付き合ってもそれ自体はまったく構わないと考えます。ただ問題なのはいつも鈍感で凡庸な詰まらん男を妻が選ぶことであると。夫と妻とその愛人の三人の関係が、思いやりにあふれ公平で洗練されたものであるのが理想なのにと。 しかしその妻の相手を殺してしまうと、のどの奥につかえていた黒い塊が取れた気分になる。自分が犯人だとばれることの不安はまったく感じず、ただ次に妻の存在が不快になってくる…。 さらにたとえば。 殺している最中に、これは冗談だと思う。ここでやめれば、いや~冗談だよと引き返せるのだと。そして実際に相手が死んでしまっても、やっぱりこれは冗談なんだと思う…。 ははあ、なるほどと思ったのは、触感や音といった感覚をきっかけにして、感情が瞬間的に爆発したり、暴力や殺人の引き金になったりする様子が描かれていること。 プールに入ったときに思っていたより水が冷たく、また髪のぬれる感覚を不快に思って、そこから軽いノリで男を力づくで底に沈めてしまう、とか。 自分の後方の少し離れたところに車が止まりバタンとドアを閉める音を聞いて、一気に怒りが限界まで爆発し、馬乗りになって首を絞め殺してしまう、とか。 この夫婦はどうも、性質が似たもの同士のようなのですが、その妻の方は冬の一番寒い日でも窓を開け放し毛布もかけず寝ていることがあり、どんなに寒くてもほとんど何もかけずに暖かい体温を保っていることができる、というところも、面白いと思いました。 人間、寝ているときは特に、何も意識せずからだが勝手に体温を一定に保っておこうとするものですが、普通はからだの外の空気の温度が低ければ体温を逃がさないように何かを被り、温度が高ければ体温を放出するべく服を脱いだりするもの。 そういうことをしないでも体温が一定に保てている、強力な能力を備えていることもあるんだなと。 つまり、そういう人を知っているので。また、私はその反対なので。 そういうことと、精神のありようとの関係に、この作者は気づいているのだなと思いました。 主人公のヴィクは、いい人としていかに振舞うべきかをよくわきまえていて、町内の人たちからの人望が厚く、自分では正常でおかしいところはないと思っている。 しかし殺人を重ねついに警察に捕まると、この世の半分の人々は鈍感で凡庸な人たちなのだと考える。自分はそんなつまらん人間ではないのだと。 全体を通して読んでいて、決して共感することはないのだけれど、そういう世界があるのだということが納得できるように思えてしまう描き方がされています。 異常を異常なものとして描くのではなく、普通の世界と同じように描いているのがミソ。作者の視点が、異常な主人公側にあるのです。 どんな犯罪や殺人でもそれなりに理由があって、犯人の心の動きを追えばそれなりに説明がつくはず、とはいえない事件が多い今の時代にふさわしい小説だと思いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.09.19 14:17:07
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