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カテゴリ:読書
ディック・フランシスの「利腕」と「再起」が並んでいるところを古本屋で発見し買ったら、「大穴」に出てくる主人公の話だからまずそちらから読まねばならないことが判明。
我慢できず「大穴」の新品を買ってしまいました。大散財。。 で、さっそく「大穴」(ディック・フランシス)を読みました。 翻訳者が一緒ということもありますが、ディック・フランシスを読んでいるとロバート・B・パーカーのスペンサー・シリーズを思い出します。 主人公の強靭な精神力やストイックなところ、自制心の強さ、頭の良さ、堅実性など、タチのいいところが共通しているのです。 直前にカタギとは思えぬどうしょもない奴らの話を読んだところだったので、この「大穴」を読み始めるとすぐに、シュワーと浄化されていくような気持ちになりました。 今回はシッドという元騎手が、引退後探偵社に雇われながらもこれといった仕事をせず書類を読んで過ごしていたのが、銃弾を受けたのをきっかけに再び根性が座りやる気になって…、てな話。 このシッドは恵まれない境遇で生きてきて天涯孤独なのですが、落馬し片手が使い物にならなくなって、さあどうするかという時になると探偵社のラドナーが手を差し伸べたり、妻とうまくいかず別居中であるのに義父が仕事のきっかけを与えたり今後進むべき道をさりげなく示したりと、救いの手が差し伸べられます。 それを読んでいて、そんなにうまく物事が運ぶわけがないと、ばかばかしい気分にさせないのが、この作者のうまいところ。 こんなに辛抱強くて、頭の回転が速く、とっさの物事の善悪などの判断に信頼が置けるような人物なら、さもありなんという気がしてきます。 人物を見込んで仕事を与え思い切ってまかせるという人物は、前に読んだ「配当」でも出てきました。 こういう懐の深い、肝の据わった人物が描かれているのを読むのは、とても気分がよいものです。 この作品は65年に書かれたものだということで、時代を感じさせるところもあります。 通信手段はもちろんですが、イギリスなので階級社会が色濃く残っているところ、それから形成外科的な技術など。 片手が醜く損傷している主人公は常にその手をポケットに入れて隠していますが、事故により顔を損傷している女性に会い、話をするうちに、「憐れみは無礼だが、人の無礼を許すのはたやすいことだ、だから憐れみをかけられてもいちいち気にすることはない」という結論に行き着く場面が出てきます。 二人とも、隠している手や顔を出して外に出ると、道行く他人や顔を合わせる人々からさまざまな反応をされるのですが、ここのところが私には具体的にいろいろ分かるところがありました。 本当にいろんな反応があるもので、好奇心とか驚きとか、白々しくあちゃらの方を見たりとか、女の人には結構苛立ちや怒りのような反応もあるものです、きれいに取り繕うことのできないのはだらしがないからだと思われるのかもしれません。 でもそれらの反応は、とっさに目に入ったものに対する自然な反応で、私にとっては鏡のようなものです。 すれ違う人の反応は、小さな子どもがどんぐりや落ち葉を指差して欲しがるように、他意のないもの。 そう割り切ってはいても、たくさんの人にすれ違うと瞬時にいくつもの視線と会話するようなことになり、疲れることもありました。 今は、周囲の人たちと私を区別して見られることがほとんどなくなり、ただの不細工なおばさんになれたのかなあと思ったりします。 最後の方で、シッドは義手にすることを決めるのですが、今の時代はこういう技術も進んでるみたいだよと言っている、その時代の技術は今のものとは雲泥の差があるように思いました。 女性も最後には吹っ切れて、無理に隠しまわらずこぎれいにおしゃれをして明るくなるのですが、外に表れるそういう気分や雰囲気を、他人は見るのであって、美醜ではないのだよなあと思うと同時に、でもきっとこの時代の技術では、今よりも気概だけで乗り越えられるものにも限度があっただろうとも思いました。 この作者の作品の魅力は、たんに豊富な知識に基づいているとか器用に書ける力があるというのではなく、人生の真実が描かれているところではないかと思います。 ああ分かると思うところは人によってさまざまで、読みながら「痛いところを突いてくるなあ」とドキッとしたり苦い気持ちになったり。 そういうところが、うまいなあと思うし、こういうものが書ける人というのは、人生を濃く感情豊かに生きてきた人なんだろうなあと思います。 どうやら、このシッドを主人公にしたシリーズは、大穴、利腕、再起のほかに、敵手もあるらしい。。んー、読むだろうな。 というか、ほかの主人公のものも、見つけ次第読むだろうな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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