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カテゴリ:読書
「利腕」(ディック・フランシス)を読みました。
「大穴」の主人公シッド・ハレーの2度目の登場。 前作で、落馬した際馬にザクッと踏まれて左腕を損傷したその痕を、悪党に火掻き棒で殴り折られ肘から下を切断して、義手をつけることになったシッドは、とにかく鋼の精神力の持ち主。 こういう無敵のヒーローの話は、読んでいてどっしり安心感があって、楽しめるんだよなあ。 でも、なんか面白味にかける気がせんでもない。 書く方としては、読む人に好かれる人物を描く方が、嫌われるような分かりにくい性格の人物を描くよりやさしいだろうけど、ハイスミスを読んでしまった後では、なんか読んだ後の手ごたえに物足りなさを感じてしまう。 そんなことを考えていたら。 今作では、シッドの我慢強さ、ストイックさについて掘り下げて描かれています。 常に鉄壁の精神力で冷静に迷いなく生きているのではなく、自分が崩れてしまうことを恐れ、自尊心にしがみつき強がって苦悩している、等身大のヒーロー。 前作では、ただシッドはいい人、前妻ジェニィはだめな人、いやな人、と単純に見えていましたが、シッドの、いつも一番でないと気に入らず弱みを見せられない性分が、性に合わないというジェニィの気持ちも、分からんではないなと思いました。 誇りや自尊心を持って生きていくということと、プライベートで自分の内にある弱みを見せるということは、相反することではなく、どちらもできればよいと思うのですが、ここらへんはなんだかジェーン・オースティンの「自負(高慢)と偏見」の世界に重なってくるなあ。。 この作者自身も、この主人公に通じる性格の持ち主のようで、だからこそ再三このシッドを登場させて、内面の葛藤や生き方を愛着を持って描いているのだと思います。 考えてみれば、この前妻の求めるような人間は、今の時代の主流なのかも。 どこまでも強がってヒーロー然としていては反感を買うので、適度に駄目キャラを演じたりして。 でもそうやって弱みを見せられるのは、余裕があるからではないかといつも私は思っています。守られているものがあるというか。 本当に、それをやっちゃおしまいよ、という立場では、垣根を低くすることはできません。 この主人公シッドも、大成功した騎手という職業をあきらめて、左腕もなくして、それでもなんとかやっていかなければならないからこそ、自尊心を持ち続けることが唯一のよりどころなのでは。 そういうところがわが息子のようにいとおしく感じている義父に、前妻ジェニィは育てられたため、そういうところがよく分かり、なおかつ受け入れられないのかもしれないなあと思いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.10.02 08:56:11
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