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カテゴリ:読書
月曜日、編みあがったチョッキを持って祖母のところに行ってきました。
交通の便の悪いところで、移動のためタクシーを呼ぼうと携帯電話のボタンを押したら、かろうじて明かりはつくものの最初の画面も立ち上がらず。 その場は何とか、施設の職員の人に電話してもらい、しゃべりでよそ見しいで飛ばし屋のタクシーに乗ることができました。 使い始めて7年目のケイタイは4千円ほどで買ったもの。 昨日買い換えた3代目は、一番安いのを選んだけど、1万7千円ほどした。何がデフレじゃ、と思いました。 てゆーかさ、ひとつの機種に何種類もの値段設定があることに納得がいかん。同じものを売るのに、何万も差をつけるのはおかしい。 それと、CMなんかを観てると、ケイタイの中でうごめくゲームとか音楽とか地図とかなんやらかんやらを、世の中の人はどんどん使いたがっているのだと思っていたけど、ケイタイ本体の値段を値引きするから1ヶ月だけ登録しといてくれっていうのだ。 そんな、方々に手間を取らせて迷惑がられてまで、つくらなきゃいいのにさと、思いました。 「イーディスの日記」(パトリシア・ハイスミス)を読みました。 何で私はこんなにこの作家にはまってしまうのだろう。背表紙に名前を見つけると買わずにいられません(古本のみだけど)。 同じような話ばかりだし、もういい加減やめようと思いつつ、これが最後と自分に言い聞かせて、読み始めました。 始めのうち、こないだ読んだジョン・ハートの「ラスト・チャイルド」に、ケチばかりつけてしまったけど、そんなにひどくもなかったのに、私は何をそんなに気に入らなかったのだろうという思いを引きずっていました。 たとえばこの文章、一言一句同じものが、ラスト・チャイルドの中にあったら、私はそれにもけちをつけたのではないだろうか?とか。 しかし表面的には、何が違うというわけでもないのだけれども、やはりジョン・ハートのものはそこに書かれている表層的なものだけという感じがするし、ハイスミスの書くものは、精神世界や世の中に対する深い洞察が感じられて味わい深いように思います。 とはいえ今回のこの「イーディスの日記」を読み始めてしばらくは、これまで読んだもののように殺人が起こることもないし、なんてことのない日常がダラダラと続く感じで、これはハズレかも、という気がしていました。 最初になんとなく不穏な気配を感じたは、上巻の74ページで、「ブレットに息子を釣りかボート漕ぎに連れて行ってほしいというイーディスの願いは ― 結局実現しなかった。」と、過去形で語られているところ。何か起こりそう、とかすかな期待。 次は94ページで、イーディスが初めて、自分で付けている日記に嘘っぱちを書いたところ。一線を越えたぞ。 こんな調子で、銃を発射して血がほとばしるという様な分かりやすい劇的展開は何もないものの、モヤモヤと少しずつおかしな世界が進行していきます。 イーディスがおかしいのか、息子や夫が悪いのか、友人の接し方がいけないのか、世間の人が冷たいのか。 この、何が正常で何が異常なのか、境目や基準が分からなくなる感じが、現実の世界そのものだと思いました。 ハイスミスはミステリー作家だとかサスペンスだと分類されますが、私は「太陽がいっぱい」のような殺人事件を描いたものもミステリーだとは思っていません。 日常の中にある病理性をリアルに描いているように感じています。 そういう意味で、この「イーディスの日記」はこれまで読んだハイスミスの作品の中でもっともハイスミスらしいと思いました。 発表されたのは77年ということですが、描かれている世界は現代そのものです。 この時代に世の中をこういう目で見て、このような形にしてみせたこの人はすごいと思いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012.04.06 15:00:23
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