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カテゴリ:読書
「しろばんば」(井上靖)を読みました。
主人公を洪作少年とし、家族や親族の名前も変えているが、これは作者の少年時代を描いた作品。 自伝的小説というか、私小説の一種ではないかと思います。 計算すると、作者が50代の頃に書いたものですが、よくこんな幼い頃の素朴な気持ちを覚えているなあと感心しました。 洪作は5歳の時から両親とは離れ、亡き曽祖父の妾だった「おぬい婆さん」という赤の他人と二人、土蔵で暮らしていた。 おぬい婆さんは、自分の不安定な地位を守る唯一の存在としての洪作を、ただひたすらかわいがった。 そのおぬい婆さんの洪作への愛情の注ぎっぷりが、読んでいて、ああいいなあと、あったかい気持ちにさせられます。 たとえば、毎朝洪作が寝床の中で「おばあちゃん、おばあちゃん」と呼ぶと、耳の遠いはずのおぬい婆さんが、「どっこいしょ、どっこいしょ」と階段を上ってきて、「はい、おめざ」と駄菓子の入った紙包みを手に握らせたり布団の中に突っ込んでくる。とか、 母親とおぬい婆さんとで洪作の取り合いになり、父親に、「洪作、帰るか、ここに居るか」と聞かれて「おばあちゃんと帰る」と即答すると、おぬい婆さんは、そうれ、見なされといったような顔をして、「洪ちゃ、ものには正直に言っていいことと悪いことがある。しかし、言ってしまったことはもう取り返しがつかん」などという。とか、 洪作が家で勉強をしていると、おぬい婆さんは、「もう総理大臣にも博士にもならんとええが。遊ぶこっちゃ。遊ぶための夏休みだもの、洪ちゃ、遊んでおいで」と言う。とか、 中学受験のために熱心に勉強を始めると、「わしゃ、たまげた!洪ちゃがきちがいみたいに勉強始めた」と、近所中に触れ回った。とか、 勉強のため朝早く起こしてくれと洪作が頼んでも、おぬい婆さんは決して起こそうとしないので目覚まし時計を借りてくると、「むごいこっちゃ。六時になると、継母みたいにちゃあんと鳴りよる」と毎回言う。とか。 読みながら、何度も笑ってしまいました。 親ではなくおばあさんだから、さらに所詮赤の他人だからこその、こんな手放しのかわいがりようなのでしょう。 両親や親戚一同はみな、複雑な感情で、でもおぬい婆さんに懐いている洪作の気持ちを無碍にも出来ず、親族とおぬい婆さんとの間では常に皮肉にあふれた言葉の応酬となります。 幼い洪作には、常にチクリと棘のあることを言う親族や、自分のしつけのことを厳しく言う両親の気持ちがよく分からずにいましたが、小学校の上級生になってくると、次第に周りの景色がこれまでと違って見えてくるようになります。 この、ただただ幼かった心が次第に複雑な感情を理解するようになる様子や、これまで気にも留めなかった世の中の不条理に目が行くようになる様子の描き方が、自然でとてもよかったです。 こういうことって、だいたいの人は大人になると忘れてしまうのでは。 こんなに感情の細やかな動きをよく覚えているのは、この人が、さまざまな出来事を喜んだり悲しんだりと感情豊かな人だったからではないかと思います。 そして、そのような人になったのには、「おぬい婆さん」という人の存在が大きく影響したのではないかと思いました。 それにしても、昔はいまより健全な世界だったんだなあと思いました。 こどもたちは、朝からさんざん遊び回って、それにも飽きた頃にふと誰かが学校を思い出すと、だいたい登校する時間だった。とか。 こどもが勝手に買い食いをして、おなかを壊すと、往診に来た医者は、「今回はどうにか二人とも生命だけは取り留めるらしい。しかし、もう一回家の人に内緒で買い食いなどをすると大変なことになる。いいかな」と言って帰る。とか。 洪作が喧嘩で相手に怪我をさせると、おぬい婆さんは何が何でも洪作の味方をして守り、本当の祖母は「謝って来たら、このばあちゃが、おはぎでも甘酒でも作ってあげる」と言い、祖父は何度も「ばかもん、ついて来な」と否応なく相手のところに連れて行きながら「いま、折檻して、ここへ連れて来た。腹も立とうが、ひとつ勘弁してやってくれんかな」と言う。 極めつけは、相手の父親で、「洪ちゃ、勝った褒美じゃ」と蜜柑をくれる。。 ちょっと冗長で取り留めのないところは「青春デンデケデケデケ」みたいですが、とってもよかったです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012.07.03 15:08:31
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