|
カテゴリ:読書
「月と六ペンス」(サマセット・モーム)を読みました。
以前、面白い本ないかな~と、ネットで検索した時に、これを薦めている人がいて、読みたい本にずっとリストアップしてありました。 また、チャップリンの自伝を読んだ時、彼の社交界での交流を描いたところに、「モーム君」がたびたび出てきたのを、覚えていました。 先日、ほんの「はしたポイント」を消費しなければならない時に、ブックオフでこの本を見つけて、手に入れました。 画家のポール・ゴーギャンの自伝に「暗示を得て」書かれたのが、この小説。 私はあまり絵のことに詳しくないのですが、それでもゴーギャンと聞けば、あの、南方の土着っぽい暑苦しい感じの絵のイメージが、パッと目に浮かびます。 でも、どういう人かは、まったく知りませんでした。 この小説の主人公は、株屋として平凡な人生を送っていた、ストリックランドという人物。 普通に家庭を持ち、おしゃれをするでもなく、ウィットに富んだ会話をするでもなく、あまり冴えない凡庸な男。 ところが、ある日突然、妻に当てた、わずか10行の手紙を置いて、スパッと家庭を捨ててしまう。 自分は親の言いなりのまま、商売人になってしまったが、子どもの頃には絵を書いていたことがあり、もう、どうしても絵を描かずにいられない。 だから、悪いが妻には別れてほしい(でも妻は結局離婚しなかった)。 主婦として、華やかにパーティなどを開いて暮らしていた妻も、まあ何とか仕事を見つけて、自分で生きていくだろう。 子どもたちも、これまでは並以上の生活をしてきて幸せに生きられたのだから、これからは少々の苦労があってもよい、何とでもやっていくだろう。 イギリスを出てパリへ行き、ボロボロの身なりに食べるものにも事欠くような、どん底の貧乏暮らしをして、そのことをまったく気にも留めず、ただただ絵を描き続ける日々。 しかし、彼の絵を見ても、誰にもそのよさが分からず、まったく売れない。 なんじゃ、こりゃ。全然だめだ、ありゃ、という感じ。 なのに、平凡で俗っぽいがよく売れる絵を描く、ストルーヴという人物には、ストリックランドの絵が本物だと分かり、どんなに冷たい態度をされても、彼に親切にしようとする。 その、ストルーヴの妻を奪い、なのにその妻が自殺。。 やがてストリックランドは、タヒチに渡り、現地の若い女性と結婚して、森の奥で絵を描いて暮らすようになる。 子どもも生まれ、その世話をするおばあさんなど、数人と家族のように、数年間平穏に暮らしていたが、やがてハンセン病になり、周囲の人と孤立し、家に閉じこもって部屋の壁中に絵を描き続け、ついには目もみえなくなって、死んでしまう。 俗物である私は、はじめのうち、読んでいて、なんという素っ頓狂なことをするんやと、驚き呆れました。 これぞ、破天荒だなと。 しかし、読み進めるうち、このストリックランドの価値観の目を通して、世の中や人生を考える癖がついてくると、結局、お金とか、食べ物とか、装飾品とか、豪華な調度品とか、そういうものを持っているか持っていないかなんて、本当はどうでもいいことなのかもしれないなあと、考えるようになりました。 贅沢の限りを尽くしても、着たきりすずめで質素な食事だけの人生でも、みんな死ぬのは1回だし。どんな死に方をしたって、どれだけ苦しんでもその苦しみにも、大して違いも意味もないような気がします。 生まれてから死ぬまでに、手にするもの、つくり出すものには、「月」タイプのものと「六ペンス」タイプのものがあって、ほとんどの人には、この世だけの、物質的な価値である「六ペンス」の価値しか分からないし、得られない。 本質的な、根源的な価値である「月」が分かり、自分の生を超えてこの世に残るものを、自ら創造できる人間はほんのわずかで、そのような選ばれた人間は、多くの苦しみを味わわなければならない。 そんなことが、頭に浮かびました。 ゴーギャンと、このストリックランドとは、同一人物ではなく、いくつかの点で相違があります。 読んでいる最中は、具体的にどの部分が共通していて、どの部分が違うのか、分からなかったのですが、読み終わってからネットで見ると、思っていた以上に共通点がありました。 学校の教科書で、はいこれがゴーギャンの絵、こっちがピカソの絵、なんていう感じで見ているだけでは、想像もつかないですが、ひとつの絵の背景には、こんな壮絶なドラマがあるのかと、驚嘆しました。 この、ゴーギャンの人生に魅せられて、これだけの想像力を働かせて、生き生きと描いた、モームという人も、すごいなあと思いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012.09.19 15:01:21
コメント(0) | コメントを書く |