カテゴリ:構造構成主義
再三申し上げてきたが,構造構成主義は学問領域をフィールドとして,乱立する信念対立を解消するためのメタ理論として整備されたものである。
ここでは,ピアジェーワロン論争を取り上げることにより,発達心理学史的にみても「関心」を対象化(相対化)できなかったことにより,巨匠間の信念対立に陥った事例があることを示してみたい。 以下,生前たいへんお世話になった故足立自朗先生の書いた「『ピアジェ×ワロン論争』(加藤義信・日下正一・足立自朗・亀谷和史 編訳著)」の中の「終章」から引用。 「終章 ピアジェーワロン論争の時代背景とその現代的課題(p.179)」(足立自朗) ■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ (略) <両者の違い> ピアジェとワロンは上記のような共通基盤のうえで論争をおこなってきたのであるが,そこに現れた両者の対立点・論点は,これまでの各章に見られた通り多岐にわたっている。 たとえば,実践的知能と理性的思考との間に挿入された中間項「自己中心性」をめぐる議論。子ども・人間の発達をとらえるとき,行為の構造としての認識構造の発達をみるか,それとも情動をふくむ人格全体の発達をみるか。個体が社会化された方向をみるか,それとも社会的な関係が個人化される方向をみるか。表象の発生と発達をどう記述するか。そもそも,心理的発達の「段階」というものを,どのようにとらえるか。 こうした論点は,ある実験的な研究や教育の実践によって直ちにどちらが(あるいは何が)正しいか決着のつくような問題ではないことを読者は理解されたにちがいない。また,両者の理論的構想の背後に(深層に)ひそむ発達の見方,人間観がかなり違っていることを感じ取られたかも知れない。 ワロンの関心事は生きている人間,また人間の「生」であったのにたいし,ピアジェにとって問題なのは人間の認識活動であった。 ワロンが身体と心の深奥にまで踏み入って人間をつかまえようとしたのにたいし,ピアジェは論理操作の構造を組み立ててそれを人間に押しつけることにより,いわば機械論的にすっきりと認識活動と発達をとらえようとした。 まさしくそういう事態があるからこそ,純粋に知的な討論であるはずなのに,しばしば問題提起とそれへの回答がすれ違ったり,完全な合意ができなかったりしたのである。 (引用終わり) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆◆ 上記の論考において,足立先生は,ピアジェとワロンの「関心」をとらえることによって,「信念対立」の「構造」を捉え,明示化したといえよう。 ピアジェ,ワロンといった巨匠でさえ,こうしたボタンの掛け違いによって,議論がかみ合うことなく,建設的議論にならないことがあるのである。 いわんや我々凡人をや。 足立先生が,最後の段落で明言されているように,ピアジェーワロン論争とは,「関心」が異なるために,信念対立に陥った典型的事例といえる(どちらが妥当な見解かはここでは別問題として)。 そして,自他の関心を相対化するための認識装置である「関心相関的観点」を身につけることにより,このような信念対立に陥ることなく,あるいは適時解消しつつ,建設的に対話を進めることができるようになるだろう。 残念ながら,足立先生は他界されてしまい,『構造構成主義とは何か』を手渡すことができなかったが,足立先生が残した本と対話することはできる。先人の残してくれた知見を生かしながら,自分にできることをやっていきたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005/09/07 12:34:53 AM
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