カテゴリ:雑感
僕はいままで1台しかパソコンを買ったことがない。
プレステ2とかをパソコン(パーソナルコンピュータ)と呼んで良いなら,数台買ったことがあることになるが,それをパソコンと呼ばないならば,そういうことになる。 ということはつまり,最初に買った1台を今でも使っているということである。 研究者としては,どうも珍しいことのようだ。 ほとんどのひとが,パソコンを買い変えている。 ちなみに,ぼくはパソコンの選び方がわからなかったので,当時とりあえず一番高価なノートパソコンを買った。 高級志向なのではない。単に,そうすれば,しばらくパソコンを変えなくともいいだろうと思ったのだ。 僕は研究以外のことでは,かなり保守的で,変化を好まない。 理由はめんどくさいから。 いくら優れたシステムであっても,それに移行する際には,それに慣れる必要がある。 システムの変化にともなう諸々のめんどくさいことをやるぐらいなら,多少不便でも今のままでずっといた方がよいと思ってしまうのである。 ゆえに,引っ越しもできるだけしたくないし,パソコンを変えるなんて,もっての他なのである。 大学4年間,最初に通った道を通い続けたが,大学院に入ってからそれが遠回りであったことに気づいたということもあったほど,冒険心が欠如しているのだ(進学していなければその道が最短距離だと今でも思っていただろう)。 もっとも,そのめんどくささはたいがい一時的なもので,その後は便利になるのだが,それは変えた後に分かることであって,変える前には実感できない(当たり前だが)。 もしかしたら,それと同様の理由から,多くの研究者はパラダイムを変更することはめったにないのかもしれない。 不便なのは,ノートパソコンのくせに5Kg程ある点だ。 持ち運びには明らかに不向きである。 その重さゆえに鞄が壊れたこともある。 重たいから頑健なのかといえばそうでもなく,昨年一度故障してマウスの類がまったく動かなくなったことがある。 修理費の見積もり7万円。 チーン$。 痛い。 が,さすがに手書きでは仕事ができないので,修理せざるを得ない。それだけに足下見られた感もぬぐえない。修理後も,たまにトラックパッドが反応しなくなるのでさらに納得できない。 もっとも世の中で,パソコンを使わずに仕事のできる学者もいる。 たとえば,池田清彦先生は,パソコンを使わない。 本も未だに原稿用紙で書いている。 理論書も,小さな紙切れにちょっとした構成を書いて,最初からトコトコと書き進めて,ほとんど書き直すらしないという。 そして指定された枚数の最後の一行でピタっと全文章を終えることができるというのだ。 それはどうやるんですか?と聞いたら,「3つのレベルの思考を同時に走らせながら書く」といったことをおっしゃっていたが,自分がやったことないだけに,にわかに説明することもできない。 しかし,「自分にはできなさそうだ」ということだけはわかった。 実際に,そうして書かれた原稿を目にする機会があった。 『構造構成主義とは何か』の「公刊に寄せて」の原稿をいただいたときである。 ほとんど修正なしの指定文字数通りの原稿用紙が送られてきたのである。 これは,まさに「怪物」である。 それに引き替えぼくは,その池田先生の原稿用紙をワード書類に書き写す過程で数カ所入力ミスをした(校正のときに気がついた)。 書き写すだけでミスをする僕と,本1冊をトコトコ原稿用紙に書き綴りほとんど修正を要さない池田清彦。 えらい違いである。 もともと僕は校正原稿に赤を入れるのも相当な箇所に及ぶため,校正も一苦労の人である(現在も1つ締め切り間近のものをかかえている)。 「いいなー」と思う。 到底同じ人間とは思えない。 だが,事実,同じ人間ではないのだから,しょうがない。 原理的には,魚と鳥が「同じ」であることにはならないのと同様に,僕と池田清彦が「同じ」である保証はどこにもないのだ。 魚が鳥をうらやんでも意味がない。 「いいなー」と憧れつつも,自分は,自分の持っている能力の範囲内で,やれることをやっていくのみである。 そして,その僕の持っている能力では,それほど性能が良くなくてもいいが,パソコンは欠かすことができないのだ。 ネットはつながらなくてもよいが(実際に家はつながっていないが),ワードを(できればエクセルとパワポも)使わないことには,仕事ははかどらない。 さて,何でパソコンのことを書いているかといえば,最近また壊れたからである。 今度は「外的損傷」。 以前からひびが入っているようにみえていたが,気のせいかなと思っていた。 しかし,最近,右手首が何やら痛い。 みてみると,ちょうどパソコンの右手首を置くあたりが,縦に割れていたのである。 痛いわけだ。 しかし,幸い長袖の季節になってきたので,手首らへんを袖でカバーしながら使っている。 DVDがみれなくなったのは,その入り口のあたりが割れているからかもしれない。そこらへんは,パカパカと動く可動式になってしまった。 でも,まだまだ使える(はず)。 「頼むからもってくれよー」と根っからのアナログ人間は語りかける。 相棒は変わらず,「フゥィーーーーーーーーー」といった静かな作動音を響かせている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005/10/16 03:36:06 PM
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