カテゴリ:構造構成主義
ナラティブアプローチは僕も使って論文書いたこともあるし、好きなんだけど、それに還元し尽くそうとするのは、客観主義とコンテンツが違うだけで、やっていることは同じだと思う。
語り尽くせないことも語れないものとして語ることができるとか、そういうことで片がつくことと、つかないことがある。 語り得ないもの、語る前から在るように思えて仕方がないものは、語ろうが語るまいがそこにあるように思えて仕方がなく、それは「語り」というアプローチからは捉えることができない、という点が問題なのに、それすら語りだとかいっても何の問題解決にもならない。 それはナラティブアプローチが悪いということではなく、ナラティブアプローチでは「語る前から在るように思えて仕方がないもの」については、うまく割り切ることができない、ということなのだ。 そりゃ、それを「語れないもの」という語りはできる。しかし、そのコンテンツについては、語った途端語られたものになるのだから、語られないものについては以前として語ることができない(基礎づけられない)。 語るアプローチで、語られないものも基礎づけることは原理的に不可能なのだ。 それは語るアプローチの欠点を意味するものではない。 アプローチの一つである以上、「射程」があることは当然のことだからだ。 特定の視点から、すべてを説明してみせることはできるのだが、それや客観主義でも何でもできることであって(語りは物理的な身体があるから生み出すことができるとか)、そういう主張を言い合っていても仕方がないのである。 それはどちらでもすべてを「割る」ことはできる(特定の視点から説明してみせることはできる)。 重要なことは、割り切れる数字(対象)と、割り切れない数字(対象)があるといことを認めることだろう。 「語る前から在るように思えて仕方がないもの」については、「客観主義」の方が割り切ることができる。「意味」といったことについては「物語論」の方がうまく扱うことができる。 言い換えれば、それはどちらのアプローチでもうまく割り切れない対象がある、ということだ。 客観主義も物語論も根本仮説性の高い枠組みである。その妥当性は関心相関的な有効性によって支えられるものなのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007/05/29 04:10:26 AM
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