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西條剛央のブログ:構造構成主義

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西條剛央

西條剛央

2007/04/22
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カテゴリ:スポーツ

最近、僕は自分のことが、前より少しだけわかってきた気がする。

自分が何が好きなのかとか、そういうたわいもないことだけど、30過ぎて今更発見するようなことがあるっていうのはおもしろい。

たとえば、好きなスポーツ選手をひとり挙げろといわれたら、僕は桑田真澄を挙げたいと思う。といっても別に会ったこともなければ、特にファンということではなくて、ひとりの人間として尊敬している。

他にも一流のアスリートは立派なことやおもしろいことを言うけども、桑田の場合、なんかひと味違う。それがどこからくるものなのか僕はわからなかったのだけど、昨年出たある記事をみて、なるほどなって思った。




桑田は球界に入ったときもの凄いパッシングにあったのだった。それは突然進路を変えたからだ。僕はなんとなくそれを覚えているけども、大学生の頃、図書館で本を探しているとき、ふと桑田の本を手にした。

それは信じられない内容のものだった。ひたすら、ひたすら桑田に対する罵詈雑言が書き連ねられている本だった。そんな本がこの世に存在することも信じられないことだし、どうやって、誰がその本を作ったのかもなぞだった。何を目的としたかは明らかだ。桑田をつぶそうとしたのだ。

その本を桑田が読んだかどうかは知らない。けど、そのぐらいの怨念をもって非難する人がいて、それに晒されたってことだ。

そのとき僕は、人間って恐ろしいなと思った。そしてそんなえげつない本がなぜ早稲田大学の図書館に入っているのだろう、とも思った。そしてそれをものともせず乗り越えて桑田は凄いなと思った。

しかし、以下の巨人を引退するときの記事をみて、桑田は自殺しそうになるほどにまで追い詰められていたのだということがわかった。そういうことを乗り越えてきたのだ。

彼のふつうの一流選手と「みているものが違う」と感じさせる理由は、そういう経験にあるのかもしれない。


説明は逆行するが僕が桑田を知ったのは、小学校の頃の甲子園だ。その頃最も高校野球を夢中になってみていた。後に巨人に入る池田高校が甲子園を席巻していた頃だ。強いチームだった。しかし、なんとその池田高校が負けたのだった。それを倒したのが桑田、清原を擁するPL学園だった。桑田も清原もバッティング、ピッチングともにまさに超高校級だった。

その後の二人の活躍はご存じの通りだ。

では、現在桑田は何をしているのか? メジャーに行ってから桑田は高く評価され順調に開幕メジャーへの道を歩いていた。しかし、開幕直前に靱帯断絶という大怪我をしてしまい、今は治療している。

怪我をしたときには治療が必要だ。当たり前だけど、それが身体的な怪我じゃなかったとしても、そういう立ち止まる時期は誰にでも、必ずやってくる。

僕も高校の頃は怪我の連続でとてもつらい思いをしたけど、今から思えば、そういう経験があるから、みえるようになったことはたくさんある。目の前の勝利を逃して悔しい思いをしたけど、そういう経験を含めて、今の自分がある。今だからいえることだけど、若い頃にそういう経験ができたのはいろんな意味で良かったと思っている。



桑田はきっと今回の怪我も乗り越えるに違いない。

彼ほど苦境の乗り越え方を知っている選手はいないだろうから。


経歴など詳細はこちら。
http://ja.wikipedia.org/wiki/桑田真澄






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桑田からの「ありがとう」 本紙独占手記

ファンフェスタであいさつをした桑田はロッカーの前で静かにユニホームを脱いだ

 巨人を退団し、米球界挑戦を表明した桑田真澄投手(38)が23日、東京ドームで開催された「ジャイアンツフェスタ2006」に参加。21年間、背負ってきた背番号18のユニホームに別れを告げた。紅白戦に登板すると3万6000人のファンから大歓声がわき起こり、退団セレモニーでは声を詰まらせながら、仲間やファンに感謝の気持ちを告げた。その後、桑田はスポーツ報知に独占手記を寄せ、18番の継承者に「心の野球」を実践することを希望した。

 胴上げされるのは初めてでした。一緒に喜びや苦しみを分かち合ったチームメートの手で宙に舞い、東京ドームの天井を見ながら「幸せだな」と思いました。このマウンドには、いろいろな思い出が詰まっています。中でも忘れられないのは、1997年4月6日、右ひじ内側側副じん帯の断裂から復活した試合です。ファンの声援が、あれほどありがたく感じた時期はなかった。暑い日も寒い日もリハビリを頑張ってこれたのは「桑田、頑張れ」と、応援に来てくれたファンがいたからでした。今日もこんなに多くの声援の中、巨人を去ることができた。心から幸せ者だと思います。

 巨人での最後の18番を、スタンドで家族が見守ってくれました。長男(真樹君)と二男(将司君)は来年、中3と中1になります。中学の3年、高校の3年、この6年間は、とても大事です。体も心も成長して、大人に切り替わる時期。だから、最初は日本の球団でプレーを続けることを考えた。ところが、G球場でのお別れ登板(9月24日、イースタン対湘南戦)の後です。離れて暮らすのは嫌だ、と思っていたのに、長男が「パパ、メジャー行ってよ。その方がいいよ」って言ってくれた。米球界挑戦を決断するには、この一言が大きかった。子供にはいつも言っています。「パパと同じことしてちゃダメだよ。お前の人生なんだから、自分のやりたいことをやりなさい」と。今日の僕の姿を、恐らく忘れないでしょう。今日、感じたことを彼らの人生に生かしてもらえばいいと思います。

 最近、いじめによる自殺者が多く出ています。実は僕も自殺を考えた時があった。確か21歳のころ、世間が(登板日漏えい疑惑による)“桑田バッシング”で一色になっていた時です。名誉棄損の裁判も抱え、野球に打ち込める状況じゃなかった。札幌での中日戦で1イニングに8失点して、何もかもが嫌になった。気がつくと、宿舎とは違うホテルの屋上から、うつろに下を見てた。でも、思いとどまった。死んだら負けだと思った。その後、当時の監督、藤田(元司=故人)さんに言われました。「お前、18番つけているんだろう。そのぐらいのことでくよくよしてちゃダメだ。野球で頑張れ」って。うれしかった。藤田さんは多くを語らない。でも、目に心があるんです。頑張れよ、お前に任せたよ、って。いつも語っているようだった。今も、どこかで、ささやいてくれている気がする。海外で挑戦したくなったのも、藤田さんがそっと背中を押してくれたから、と思います。

 僕の引退は、一体、いつになるのだろう? ワインにも5年もの、10年もの、20年もの…といろいろあります。種類によって、そのワイン特有のピークがあるんです。年月の経過とともに、味も上昇線を描き、一番いい時を迎え、そこからまた下がってくる。それぞれにおいしさがあるが、僕はこのなだらかな下降線を描く時の味が好きなんです。古酒と呼ぶのですが、いいワインは緩やかな下降線を描いてくる。ワインも選手も降りる時が大事。おそらく「思い残すことはない、やるだけのことはやった」と思ったら、潔く辞めると思います。

 引退してから米国に行くのと、現役のまま行くのとでは、雲泥の差がある。ユニホームを着ていなければ学べないことは、たくさんある。スポーツは素晴らしいコミュニケーションツールなんです。スポーツ、音楽、言語。3つのいずれかがあれば、米国だってキューバだって中国だって、どこの国の人とも心を開き、分かり合える。言葉を交わさなくても、野球を通じて尊敬の念が芽生えたりもする。僕が向こうのチームで仲間に好かれたら「日本人って、いいヤツもいるんだな」と家族や友人に伝えるでしょう。そうやって輪が広がっていけば、戦争なんて起こらない。僕が野球を続ける究極の目的は「世界平和」なんです。

 18番の継承者については、球団が決めることであって、何もプレッシャーを感じることはない。つけた人が、その人らしくやればいい。僕のまねをしろとは言えないし、しない方がいい。ただ一つ、野球に対してだけは真っすぐでいてほしい。真っすぐに考えて、真っすぐに行動してほしい。心のこもった野球をしてもらいたい。そこだけをお願いしたい。心の野球?それが桑田真澄の野球です。皆さん、21年間、本当にありがとうございました。(巨人投手)

(2006年11月24日06時02分 スポーツ報知)





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Last updated  2007/05/29 04:45:49 AM
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