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西條剛央のブログ:構造構成主義

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西條剛央

西條剛央

2007/06/21
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カテゴリ:雑感

もともと料理をする基礎的能力だけは、小学校の頃から身についていた。

ちょっと昔話をすると、実家は自営で、特に冬は忙しかった(剥製屋の稼ぎ時は冬の猟期間中なのだ。そこで1年分稼がねばならない)。両親はその頃流行っていた「おしん」をモデルに僕らを育てたから、僕らは奉公しているかのように働らいた。

小学校の頃、妹たちが小さかったこともあり、ご飯を炊いて味噌汁を作るのは僕と兄の仕事だった(妹は7つ下と9つ下だからまだ小さかった)。

干し柿を大量に作ったりもしていて、何百という柿をむく中でナイフの使い方を覚えた。たぶん一生分の柿をむいたと思う(だから今でもリンゴとかをするするっと最初から最後まで切らさずにむくことはできる)。




その他にも、茶碗洗い、茶碗ふき、妹達の面倒をみる、部屋の掃除をするなどいろいろな仕事が与えられていた。

「勉強なんてしなくていいから、家の手伝いをしなさい」というのが両親の口癖だった。

勉強は嫌いだったから「勉強なんてしなくていいと」言われるのは良かったが、「そんなこという親はあんまりいないんじゃないか」と子どもながらに思っていた。なにせ友達は公文やらそろばんやらに通わされていたのだ。みんな「行きたくない」といっているのを聞いて、「たいへんだなあ、かわいそうに」と思っていた。

しかし、冬は1ヶ月に1回も友達と遊べなかったのは辛かった。


仕事はおのずと兄と分担することになるのだが、僕は茶碗洗いとかするよりも、小さな妹たちの面倒をみていた方がずっと愉しかったので、できるだけ妹たちの面倒をみるようにしていた。

座布団や毛布などを使って部屋の中に「基地」を作ったりして、妹たちの面倒をみるといいながら一緒に遊んでいた。妹たちはかわいかった。僕は妹をおんぶして、近所を歩いていた。そんな子どもは、その頃もテレビの中のおしん以外にはいなかったが、別になんとも思わなかった。



いやだったのは、冬に灯油を近所の灯油を売っている店に買いにいく仕事だ。これは兄と交代でやることになっていた。

暖かいコタツに入ってミカンを食べながらテレビをみている至福のときに、「灯油買ってきなさい」と言われるほどブルーなことはなかった。

北国の冬は寒い。かなり雪積もっていることもあった(昔は今よりずっと降ったのだ)。

しかも灯油は1つ18リットルもあるのだ。それを2つ買ってこなければならない。最初は1缶づつ持ってきたが、2往復するのがめんどうなのでそのうちいっぺんにもってくるようになった。片手に1つずつ、2つで36キロだ。

しかも、灯油が足に付いて灯油くさくなるのがイヤだったので(僕ら兄弟は真冬でもランニングに半ズボンだったのだ)、脇を空けて灯油缶をできるだけ体から離してもってくることになる。負荷は増大する。これは小学生の身にはかなりの負荷だった。

今思えば、これで相当鍛えられた部分もあるように思うが、それでもあれはたいへんだった。


その後、中学に入ると、そうした仕事の多くは免除されるようになった。妹たちも大きくなってきたことと、僕らも部活などで忙しくなったからだ。

小学校の頃の反動で、茶碗洗いとかまったくしなくなった。

灯油を買ってくるのは中学校に入っても続いたこともあり、灯油を入れることは特に嫌いになった。自分の部屋のヒーターの灯油を入れることも嫌だったから、毛布にくるまって寒さに耐えていることもあった。それでも買いに行かされるのは理不尽に思えたが、それはそれで仕方がなかった。

そのせいもあり、一番嫌いだった茶碗洗い嫌いと灯油嫌いは大学時代も続いた。ついでに、原付にガソリンを入れるのも嫌いになった。ぎりぎりまで入れないため、たまにガス欠になった。2回連続でガス欠にしたこともある。ほとんどビョーキである。


やはり、子どもに無理矢理何かを強いるのは、あんまり良くないのかもしれない。

反面、勉強を強いられるということがなかったのが、僕にとっては幸運だったと思う。

勉強を無理強いされていたら、僕は学者にはならなかったに違いない。


というか、「勉強なんてしなくていいから、家の手伝いをしなさい」と言われて育った学者ってあんまりいない気がする。両親も、まさか僕が学者になるなんて夢にも思わなかっただろう。というか、そもそも学者とか教授とか研究者という名詞が我が家にはなかったように思う。


世の中では、親が「お願いだから大学ぐらい行ってちょうだい」と言うことも珍しくないらしいが、家の親はそういうことも一切言わなかった。

むしろ、テスト勉強がたいへんだとか、文句をいっていると、「誰も勉強してなんて頼んでないぞ。大学なんて行かない方がお金かからなくて楽だから、別に行きたくないなら行くな」と言われた。

そう言われると、行きたくなるのが人情というものである。特に天の邪鬼な僕は、人に道を決められるのが嫌いで、「右に行け」と言われると「じゃあ右にだけにはいかない」というヤツだったから、親もそれが分かっていたのだと思うが、あまりあーしろ、こーしろと言われなかった。もっとも、本当にダメなことはがっつり怒られた。両親(特に父)はときに怖い存在でもあった。



そのときはいろいろ思うこともあったが、兄妹4人ともまっとうに育っていることを思っても、両親の育て方は全体として(父母システムとして)、とってもまっとうだった。

とても、いい加減で、適当で、でも大事なことは押さえていて、頑固で、優しい両親であった。


昔話おわり。





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Last updated  2007/07/31 05:21:45 PM
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