カテゴリ:雑感
とびっきりオリジナルなものを作りたい、独自のものを作りたい、あの人と違うものを作りたい、否定したい、乗り越えたい、勝ちたい、認められたい、業績を増やしたい、自分をアピールしたい。
そういう欲望は、野心のある人なら多かれ少なかれ持つのは自然なことだ。僕にもそういう気持ちはある。 しかし、原理的な理路を構築する際には、そうした我欲は邪魔になる。 欲望は目を曇らせ、原理から遠ざかることになる(原理に近づいたつもりにはなれるが、それは欲望がみせた幻影に過ぎない、と後で気づかされることになる)。 自分が、自分のために考える、というのではダメなのだ。 そりゃ自分で考えるのだが、我が全面に出ているようでは、我の中でのみ通用する原理は構築することができても、様々な人が認めざるをえないような理路を構築することはできない。 ゆえに、できるだけ我には裏方に廻ってもらうのが望ましい。 原理の構築は、理路の深化は、数式の展開のようなものなのだ。数式を自分の欲望で展開したら、間違えるだけだ。それは展開すべきように展開していくことが大事なのだ。 それは啓示的に、直観的に与えられることもあるが、しかし多くの場合は、理にしたがっていく中で、自ずと深まるものなのだと思う。 静かに理に耳を傾け、それにしたがって動くこと。 そうする中で初めて、ちっぽけな己を遙かに凌駕するような理をその手にしている、ということが起こりうるのだと思う。 そして、そのときの知的高揚感は、他に得難いものなのだ。 すると、他人と比べてどうのこうのといったちっぽけな欲望などたいしたことではなくなる。理への飽くなき欲望が、世俗的な欲望を捨てさせるということもあるのかもしれない。 だとしたら、それは禁欲的なのではなく、欲望のあり方が、質が異なるというだけなのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007/08/20 03:28:59 PM
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