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西條剛央のブログ:構造構成主義

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西條剛央

西條剛央

2007/11/02
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カテゴリ:教育
わかるということは、最初からそこにあったものを発見するというような類のことではない。

学校の勉強、特に受験勉強などを通して、最初から答えがある問題を考えて「答え合わせ」するということを繰り返すうちに、多くの人は「わかる」ということを、最初から存在している答えを探し当てるような行為と勘違いしてしまうのだ。

学者や武術家など、多くの探求者にも似たような錯誤は取り憑く。

一人で探求している場合にしても、わかった後には、その何かはあたかも自分がわかる前からそこに存在していたかのような錯誤に陥るため、多くの人に「わかる対象は実在している」という信憑が取り憑いてしまうのだ。

また多くの場合、自分がその構造を構成して「わかった」ときにも、自分より先に「構造」を掴んでいる先人がいて、「ようやく君もそれがわかったようだね」と言われたり、「あの人がいっていたのはこのことだったんだ」と「わかる」ため、「わかる対象は実在している」という信憑は強固なモノとなる。


「わかる対象」は「真理」でも「術理」でも「原理」でも何でもいいのだが、その「わかる対象が実在している」という確信は、わかった後、事後的に生じるものなのだ。かつそれと同型の構造を先に構成している他者の存在が、その確信を後押しする。

こういう議論をすると、「いや、普遍の真理が存在しているからこそ、みんなが同じことがわかるのだ」と思う人はいるだろう。

しかし、まず「みんなが同じことがわかる」というのはウソとはいわないまでも、一面しか言い得ていないということを考える必要がある。同じように、わからないこともたくさんあるから。しかも、そんなのどうやって確かめるのっていう話でもある。

正確にいうと、みんなが同じことがわかると思っていたら、全然わかっておらず、かと思ったら案外わかっていたりするということが、他者とのコミュニケーションの中でわかってくるということなのだ。さらにいえば、これこそ真理だと思っても勘違いしている可能性は常にある。

そうした複雑な事態をそのまま言い当てるものでなければ「ほんとう」(原理)とは言えない。

おそらく、同型の世界(現象)で、同型の身体構造をもつ人間が、同型の関心を共有して生きていけば、結果として同型の構造を構成することは多くなる。だから、「普遍の真理」などという概念が生み出され、共通了解可能になるのだ。

そうでありながら、「世界」や「身体構造」や「経験」や「関心」はちょっとずつ、あるいは、大幅にずれているため、同型の構造(正しさ)を構成できないことはいくらでもある。そして、そのことも他者との交流の中で、顕在化してくるように、感じられるものなのだ。



しあがって、原理的にいえば「普遍の真理」などというものは、最初からどこかに「実在」していたりするものでない(という考えの方が筋が通ることになる)。


「わかる」ということは、その都度その都度、新たな構造を構成しているということなのだ。

ちなみに、「最初から在るモノ、構成したなどということは傲慢だ。重力を構成したとでもいうのか」というつっこみもありうるだろうけど、「最初から在る」という自分の確信を絶対的なモノと考えている方がよほど傲慢だろうと僕は思う。



ずっと気になってモヤモヤしていたことがわかったり、思いもよらないものが同じだとわかったりすると、それは「知的高揚感」という表現がぴったりくるような知的快感になる。特にそれが当人にとって最初の気づき(構成)の場合は、特にその快感は強くなる。

「わかる」ことによる知的高揚感とは、おそらく「誰も作ったことがないであろうものを作っちゃった!」という喜びと同型なのだと思う。

「わかる」ということは「新たな構造を構成する」ということであり、そのため知的高揚感とは、作る快感と同型なのだ。





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Last updated  2007/11/06 05:57:54 PM


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