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西條剛央のブログ:構造構成主義

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西條剛央

西條剛央

2007/11/12
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カテゴリ:教育


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真夜中の役に立たない授業、第五回です。めずらしく連続です。


今日は生き延びたり、成功したりする上で一番大事な要因は何かお話したいと思います。



さて、それは何でしょう?


















































































































努力でも、才能でも、発想力でも、柔軟性でも、強靱な意志でも、実行力でも、経済力でも、人間関係でもありません。






























































答えは、「運がよいこと」です。


身も蓋もない話ですが、本当です。


僕は10代の後半に何度も怪我をしたり、様々な経験するうちに、この当たり前のことがわかってきました。

仮に、どんなに才能があり、どんなに努力をしても、たとえば試合の前に怪我をしたり、病気になってしまったら望ましい結果は得られるはずもありません。そもそも突然車がつっこんできて死んでしまったら成功もへったくれもあったもんじゃないのです(「タッチ」の上杉和也 のように)。


それは自己管理不足であるとか、努力が足りないだとか、いろいろ言うことはできます。確かに、そういうケースもありますが、そういうものを受け付けないケースもまた厳然として存在するのです。


先日、立てこもり事件でSWATの隊員が撃たれて死亡しましたが、彼は主席で卒業した大変優秀な人だったとのことです。つまり才能もあり、努力もしていたに違いありません。

しかし、運がなかった。

なぜ、彼の隣の人ではなく、彼に当たったのか。あるいは防弾チョッキの隙間に当たったのか。彼の注意不足だということは誰にもできないでしょう。

またビル街を歩いている際に、上から人が降ってくることを想定して注意して歩いている人もいないでしょう。隕石が落ちてくるのでも、車がつっこんでくるのでも、何でもいいのですが、そういう「不可避のアクシデント」というものはあるものです。

えっ、それは危険を察知する能力を磨かなかったからだ、ですって? でも原爆や水爆を落とされたり、巨大隕石が落ちてきたら避けようがありませんよね。

結局のところ、「不可避のアクシデント」は、“あちらから”やってくるもので、そうであるゆえに、基本的には自己管理や、努力などといった「自分」の力を受け付けないのです。



しかし、そうした「どうにも避けようのない不幸が降りかかってこないだけ運が良い」ということは忘れがちです。

なぜかといえば、避けられているうちは、何も起こらないからです。

人は、“何も起こらないことを評価することができない”のです。

イラクに自衛隊が派兵されて、米兵は毎年800人以上死んでいるにもかかわらず、自衛隊は数えるほどしか死者も出していないことを評価できていないことをみても明らかです。業務が内容が全然違うとはいえ、危険地帯で生活しているにはかかわらずこれはすごいことです。

なにせ平和な日本でさえ、年間何万人という人が事故死しているのです(交通事故死亡者だけで年間1万人、90万人の重軽傷者が発生しています)。それにもかかわらず、世界でも屈指の危険地帯において自衛隊が多くの死者を出していないことを評価できないのは、“誰も死なない”ことを“何も起こっていないこと”と勘違いしているからです。

本当は、“確率論的にはありえないようなことが起こっている”のですが、それはニュースにもならないので可視化されないのです。



それは僕らの生活でも同じです。

普段通りの生活が送れる、普段通りの実力が発揮できるということは、「不可避のアクシデント」が起こらないだけの運の良さに支えられている「僥倖」なのです。



「生き延びたり、成功したりする上で一番大事な要因は運の良さである」といった意味はこういうことです。



「自分の」努力や、才能や、発想力や、柔軟性や、強靱な意志や、実行力などによって、「自分の力で」生きているなどというのは、甚大なる勘違いなのです。

生きる、成功する、ということに関して、「自分」が寄与できることなどは、ごくごくわずかな割合です。

あちらからやってくる、絶対的な何かには逆らうことはできません。

ただ、やってこないことを祈り、今ある日常に感謝し、微力ながら自分ができることをするのみです。



最近は、我々人類は、地球の温度すら人為的にコントロールして、努力次第で地球温暖化が“防げる”と勘違いしているぐらいですら、自分を自分の力で生かし、ときに成功に導いていると思いこむのは必然的なことなのかもしれません。それほどまでに「何事も人為的にコントロール可能である」という「コントロール教」に対する信仰は相当に強固なものとなっています。


昔は、自然の力に翻弄されて生きていたため、そういう勘違いをする人は今よりは少なかったと思います。

だから、それを何と呼ぶかは、文化によってそれぞれでしょうが、自分を超越した“何か”を敬い、感謝する気持ちは共通してもっていたのではないでしょうか。特定の宗教をもたない日本人でさえ、八百万の神といったコトバに顕れているように、そうした気持ちはもっていたと思います。


僕らは「自分」で生きているのではなく、生かされているのだという当たり前のことに思いを馳せる人にとって、ときに、ちっぽけな自分を超越した“何か”に頭を下げて、祈ったり、感謝したりすることはむしろ自然なことなのでしょう。


こうしたことがわからないうちは、他に何を知っていようとも、まだ「自分」を過大評価している幼い子どもなのかもしれませんね。



真夜中の役に立たない授業、第五回を終わります。









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Last updated  2007/11/14 09:14:03 PM


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