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先月の話になるが、遅まきながら司馬遼太郎の『坂の上の雲』(1~8巻)を読了した。
ずっと気になっていたのだが8巻という長さに加え、なんとなくまだ今は読むべきものではないという気がしていて、あえて手に入れずにいた本だ。 俳諧の革命児、正岡子規と、その親友の秋山真之(東郷平八郎の元でロシアのバルチック艦隊を撃破する作戦のすべてを立案した)とその兄の秋山好古(日本の騎兵隊を組織し、最強のロシアコサック騎兵隊を破った)の三人を軸に、日清戦争以前から日露戦争が集結するまでを、史実に沿いながらいきいきと描いている。 司馬遼太郎氏のあらゆる歴史資料を踏まえながら、時折想像を交えた記述が絶妙に混ざりながら進行する物語は、他の追随を許さないものがある。 それは、「その人物がそういう状況に置かれたならば、そう言ったに違いない」と思わせられる点に、凝縮されているといえよう。 僕は、出会うべきものには出会うべき時に出会うと思っているから、なぜこれまで読まなかったのだろう、と思うことはほとんどないのだが、この本を読んでいるときには、たびたびそういう思いが浮かんできた。 月並みな言い方しかできないのだが、日本にもかつて“こういう時代"があったということ、今の日本があるのは、時代を切りひらいた先人達のおかげであるということ、そしてじつは今日本のシステムは老朽化しつつあり、かつての清やロシアのような危機的な状況にあるということを認識させてくれる。 日本人必読の書、といっても過言ではないだろう。 あまりに多くのことを考えさせられる本だったので、到底書ききれないのだが、いくつか述べてみたい。 読んでいて謎だったのは、なぜ『坂の上の雲』という題名なのか?ということだった。 もっとわかりやすい、キャッチーな名前を付けることだってできただろうに。(実際、この著書を原作とした漫画を 江川達也が書いているが、その題名は『日露戦争物語』である。題名と同じく薄っぺらくなっているが、しかし主人公達の“雰囲気"はうまく描けているように思う。) 3巻まで読んで、その表紙(写真)をみたときに、ようやくわかった気がした。 それを説明するには、まず正岡子規の俳句理論を踏まえる必要がある。 正岡子規は、「写実論」という独自理論を打ち立て、それまでの聖典とされている古今集などをぶったぎっていき、俳句、短歌の世界に革命を起こした。 この迫力を伝えるために、長くなるが司馬遼太郎の記述を引用してみよう(2巻p.302)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ・・・ 事をおこした子規は、最初から挑戦的であった。 「歌よみに与ふる書」 という十回連載の文章が「日本」にのりはじめたのは、明治三十一年二月十二日付からである。 その文章は、まずのっけに、 「ちかごろ和歌はいっこうにふるっていません。正直にいいますと、万葉いらい、実朝いらい、和歌は不振であります」 という意味を候文で書いた。手紙の形式である。 「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候」 という。歌聖のようにいわれる紀貫之をへたとこきおろし、和歌の聖典のようにあつかわれてきた古今集を、くだらぬ集だとこきおろしたところに、子規のすご味がある。 (中略) 当節の歌人という存在をも、大鉄槌をもってうちくだこうとしている。かれによれば歌をよむための歌よみの歌というのは芸術ではないという。歌は事実をよまなければならない。その事実は写生でなければならないとし、なぜ自分はそのようにいうかということを、いちいち古今の歌を実例にあげつつ論証した。 はたして、子規への攻撃が殺到した。 わずかな例外をのぞいて和歌というものはほとんどくだらぬといってのけた子規は、そのくだらぬわけを、さまざまに実証する。 たとえば、 「月見れば千々に物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど」 という和歌をひく。上三句はすらりとして難ががないが、下二句はリクツである、と子規はいう。 「歌は感情をのべるものである。リクツをのべるうものではない。・・・・・・もしわが身ひとつの秋と思うと詠むならそれは感情としてすじがとおっている、が、秋ではないが、と言いだしたところがリクツである。俗人はいうにおよばないが、いまのいわゆる歌よみどもは多くリクツをならべて楽しんでいる。厳格にいえばこれらは歌ではなく、歌よみでもない」 思いきったことをいっている。古歌をこきおろすだけでなく、古歌をありがたがってそれを手本に歌をつくっているいまの歌人は歌人ではない、その作品も歌ではない、という。むろん、子規はよくあるような匿名者流のなでぎりをしているのではない。自分の歌論を明示し、かれのかかげる写実論を基準にしたうえでのことである。彼は自分の詩論に適う例、つまりこれこそ歌であるという例として源実朝の歌などをあげて論旨をより明らかにした」 ・・・ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 子規の歌論、写実論はとてもシンプルなものだが、なるほどその理論には説得力がある。 そしてこの写実論を視点とすると、俳句も和歌も格段に作りやすくなるという点で極めて実践的でもある。 なにしろ、自分の心が動いたときに、目に映っていること、経験していることをそのままコトバにすればいいのだ。 すると、その「心情」が、素朴だが何がが伝わる「歌」となる。 子規は写実論という理論を武器に、軍人秋山真之すら「子規の革命精神のすさまじさと、そのたけだけしい戦闘精神に酔ったがごとくなった」ほどの論陣を張る。 以下そのくだり(2巻p.323)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ・・・・ 読み終えて、真之は、 「升さんには、どうも」 と、毒気にあてられたようにぼんやりしている。真之はこの気持ちをうまくいいあらわせないが、子規のこの闘志は、そのあたりの軍人などが足もとにも寄りつけるものではないことだけはわかった。軍人流にたとえれば、子規の戦いの主題と論理はつねに明晰である。さらに戦闘にあたっては、一語々々のつよさがあたかも百発百中の砲門からうちだされる砲弾のようである。 (中略) 「あしはあの火縄銃をみるのがどうにも怖ろしかった。鉄砲の音もきらいじゃ。(略)しかし人間というのは複雑ぞな、たとえば生死の覚悟となれば軍人などには負けんぞな」 (そりゃ、この男ならたれにも負けんだろう) 真之は思った ・・・ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ このように、死の淵にいながら、熱き命をまっとうする正岡子規の姿が描かれている。 さて、この話が題名と何の関係があるのか? ふと、3巻を読み終えて、その表紙をみたときに、突如それらがリンクした。 乃木大将とその参謀伊地知の(司馬遼太郎に言わせれば)「無能さ」ゆえに、コンクリートで固められた世界最強の要塞に対して、無策のまま小銃のみによる特攻を繰り返し、集中的に待ちかまえる砲台や機関銃の集中砲火にされされ、団体ごとミキサーにかけられるごとく粉々にされた。 わずか6日に1万6千人死傷して、要塞にはかすり傷ひとつつけられなかった。 明治維新直後で、武道の伝統がまだ息づいているこの時代、日本兵は接近戦では極めて強かったという。 おそらく、甲野先生のように己の技を磨き、高度な武術を身につけたものも少なからずいたに違いない。しかし彼らの多くは、そうした「武」を発揮する間もなく、無謀な特攻のみを命じられ、ことごとくなぎ倒された。 そしてそれを命じた「上」は、一度も現場を見に行っておらず、度重なる全滅にもかかわらず作戦を変えるということをしなかった。 その無意味とはいわないまでも、犬死にさせられたという表現しか思い浮かばない多くの死に触れているだけで、気が滅入ってくるほどだ。 無能な人の権力の強さと悲劇の規模は比例する、ということを思い知らされた。 司馬遼太郎はきっと、そうした特攻を強いられる兵士の目に映った風景をそのまま写生したのだろう、と思った。 そうした特攻は、まさに坂の上の雲を掴みにいくようなものだったのかもしれない。 あるいは、それは「志」のようなものだったのかもしれない。 つづく?(仕事が一段落したら書くかも)。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008/04/14 07:28:49 PM
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