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西條剛央のブログ:構造構成主義

西條剛央のブログ:構造構成主義

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西條剛央

西條剛央

2009/04/02
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カテゴリ:構造構成主義
久しぶりにまともな日記を。

先日、(不思議な=あまり聞いたことがない)ご縁があって教育心理学で著名なN先生とお会いする機会があった。 とても聡明で、柔らかく、ラディカルで、そうでありながら自他の立ち位置を相対化するということを自然体でできる素敵な方だった。

N先生は、構造主義科学論や構造構成主義に関心をもってくださっていたようで、『構造構成主義とは何か』をはじめ、『科学の剣 哲学の魔法』なども読んでくださっていたとのこと。お弟子さんも、この本知っていますか、といってそうした本を持ってきたということもおっしゃっていたので、構造構成主義は知らないところで広まっているんだなということが実感した次第(そういうことが最近多い)。





妙に波長があって、話は盛り上がり、いろいろと良い刺激を受けた。

特に印象的だったのは、時代が変わるときには、その先導者は自覚的に変えていくのだけども、全体として変わるときは、いつの間にか変わっていて、その意味では、時代が構造構成的に変わるときというのは、構造構成主義や西條さんの名が必要なくなったとき(それでもそれが達成されている状態になったとき)かもしれないね、といったお話だった。


それをきっかけにこんなことを考えた。

時代はいつの間にか変わる。

一例を挙げれば、男尊女卑(男女差別)から男女の原則平等へといった考え方(価値観)の移り変わり方は、一定の方向性を持っている(とはいえこれも社会的な背景が影響しているのだけども)。

すなわち、一度そのような価値観になると、まだそうじゃない国や地域はあるけども、どんどんそのような価値観は広がっていく。そしてそれは不可逆的な流れでもある。


なぜそうなるのか?


キーワードは(男の子的にいえば)「かっこいい」というコトバだ(女性的にいうと「素敵」とかになるのだろうか)。

僕らは「かっこいい」と思うとそれを真似する。少なくともそうなりたいと思う。そしてそれと背反するあり方を「かっこわるい」と思い、そうはなりたくないと思う。


先の例でいえば、若い人で、いまだに「男女差別」(男尊女卑)をナイーブに主張するひとは、あまりいないだろう。最も田舎にはそれなりに現存しているみたいだが、それにつけても数十年前と比較すれば、かなり少なくなっているだろう。

なぜなら、「男女差別」するひとなんてかっこわるい、今時そんなヤツはむしろ男らしくない、と思うからだ(そもそもそんなこと主張しようものなら、素敵な女性に相手にされることはない、というのも大きいと思うが)。

思想の広まりというと高尚な響きがするけども、結局人間の営みである以上、結局のところ、そんなところなんだと思う。





つまり、構造構成主義の文脈でいえば、「ナイーブに自分の正当性、絶対性を主張してはばからない人」(例.ナイーブな客観主義者)よりも、あるいは「自分の価値を相対的に上げるためにナイーブに懐疑し続けることに躍起になる人」(例.ナイーブな懐疑論者)よりも、そのどちらにも依拠せずに、「自他の関心を踏まえた上で、その件についてはこう考えた方がよいのではないか」と建設的な提案をできる人の方が「かっこいいor素敵」と思えば、人は自然とそうなっていく、ということなのだと思う。


つまり、ひとたびある「考え方」ができる人を、「かっこいい」「素敵」と思ったならば、そうなろうとする。そして、そうなったひとをみた他の人が同じように思ったならば、そうなろうとする、それを見た人が同じように思いそうなろうとする、それをみていいなと思った人はまた・・・(×繰り返し)・・・といったプロセスを経て、次々に(指数関数的に)広がっていくのだと思う。

これを「思想パンデミック」と名付けることにする(*パンデミック(pandemic)とは「感染爆発」のことで、特定のコミュニティ内で流行することをエピデミック(epidemic)と呼ぶのに対して、その規模が大きくなり世界各地で散発的に起こるようになった状態をいう)。





さて、N先生は一方で、「本当に良い考えが分かる人は、少数だから多数派になることは難しい」というようなことをおっしゃっていた。

高レベルなことに限定すれば、確かにそうかもしれない。けど、時代的価値観が変わるということに関してはまた違った考えをもっている。

まず、少数派の考えを多数派にするということを、可算的にイメージすると、果てしもなく遠く感じるかもしれないが、先に述べた「思想パンデミック」のように指数関数的に伝っていくものとしてイメージするとだいぶ違うだろう。

また、右側のいたひとを左側に移ってもらうといったイメージで捉えると、果たして全体を真逆にもっていけるものだろうか、と思ってしまう。

しかし、実際はそうではないのだと思う。

僕は正規分布をイメージしている。

正規分布とは、「ゆるやかな山型」を描く曲線のことだ。

テストの点数をイメージしてほしい。0点の人は少なく、平均値(偏差値50)に近づくほど人は多くなりピークに達し、その後ゆるやかに減少していき100点はまたほとんどいなくなる、という「山型」になる。

何を教えようと変わらない人はいる(たとえば、0~10あたりのひと)

何を教えなくとも実践できている人もいる(たとえば、90~100のひと)

正規分布の両端は、だからこの場合あまり関係ない。

さしあたり大事なのは、正規分布の山(ピーク)を右側に10ポイントでもずらせるかどうかなのだ。

10ポイントずらせれば何が起きるかといえば、それは多数派が入れ替わるということなのだ。

真ん中の平均値の人は、いわば揺れている状態でもあり、あるきっかけがあれば、すぐに右側に移ってこれるひとだからだ。

実際に、構造構成主義でも「自分がなんとなく思っていたことに理論的基盤を与えてもらった」といった意見や「自信がなかったがこれでいいんだと思えた」といった意見、そして「言語化してもらったことで、意識的に使えるようになった」、「定式化されているので人に伝えられるようになった」という意見はよく聞く。





構造構成主義が広まったのは、なにより時代的にそういう土壌が整っていたためでもある。研究の文脈でいえば、量的研究全盛の時代から、質的研究が台頭してきて、信念対立に陥っているそんな姿をみていたら、「なぜこうなるのだろう? こうならずに済む考え方はないのかな?」と思うのは自然なことだ。

思想的にいえば、科学主義全盛の時代から、科学の絶対性が崩れて、いろいろなやり方があっていいんじゃないかとなったならば、次には「それじゃ結局何でもありになる、そうならずにかつ絶対的な何かに依拠せずに前に進んでいける考え方はないのだろうか?」と思うのは、やはり自然なことなのだ。

僕が構造構成主義を考えたのは、そうした時代的な土壌に育まれたからでもあって、僕が作らなければ、似たようなものは他の人がやはり作っただろうと思う。

何を言いたいかといえば、機が熟していれば、多くの人にそれが浸透する感度が育っているため、「ああ、それはそうだよな」とわかってくれる人は相当数いるということだ。

時期尚早というコトバがある。

池田先生や竹田先生は登場が早すぎたということもできるが、しかしそうした先達が理路を切り拓いてくれたために、僕らはそれを足がかりに次に進むことができているのだから、おそらくマクロにみれば時期尚早ではない。やはりポストモダンの限界を感じた最初の世代として、でるべくして出てきた考え方なのだと僕は思う。

しかし、その時代はまだ、哲学や思想界の感度の高い一部の人だけがポストモダンを超える考え方の必要性を認識していたのであって、社会科学や医療界は以前として素朴な科学主義だった。全体的な変革の土壌は育っておらず、ゆえに池田先生の構造主義科学論は15年以上無視され続けてきた(正当に評価されることはなかった)。





長いこと書いていたら、何書いているかわからなくなってきた。えっとなんだっけかな。

そうそう、そして大事なことは、全員が完全に変わる必要はない、ということだ。

たとえば露骨な差別はあまりなくなってきたが、現在でも心の中の差別はある。誰でも、あのひとは頭良さそう、悪そうとか、ああいうひとは好き、ああいうひとは嫌いと思うだろう。心の中は制御できないので、それは仕方がない(そうしたことを制御しようとすると別の差別を生むことになるから要注意)。

問題はそれを言語化したり、好き嫌いを基準に出世を妨げたり、不当に評価しなかったりすることだ。

しかし、マジョリティ(多数派)がそうしたことは駄目だ(かっこわるい)と思うようになると、それでも変わらない(依然として差別したい)人も、周りの目があるためにできなくなる(という話をアメリカ人のSさんにしたところ、まさにその通りだ、アメリカでも実際は差別する心を持っている人はいるができなくなっているから、といっていた)。

これは意外に盲点になりがちだが、とても大事なことなのだ。





ともあれ、そうした時代的土壌は、その社会が置かれている状況によって変わる。

今「自由」が原則的には誰にでも担保されているが、たとえばエネルギーや食料が極端に不足したならば、「自由」は奪われ、一部の権力者だけがそれを持つことにもなりかねない。

自他の関心を相対化していては生き延びることができない時代になれば、おのずと力と暴力が価値を持ち、ナイーブに自分の正当性を謳っていようとも身体的に強いものが「かっこいい」(よきもの)として認識されるようになるだろう。

しかるに現在はどうか。民主主義と資本主義が成熟した一方で、ボーダレス社会が加速し、様々な価値観を持つ人達が交流するようになった(せざるをえなくなった)。宗教戦争は未だ終わらず、宗教の信念対立を低減する「考え方」すらない状況だ。

こうした状況は、様々な価値観の絶対性を契機とする信念対立に陥らない「方法原理群」からなる構造構成主義が有効だ。つまり、今まさに構造構成的な考え方が広がる土壌が育っているということなのだと思う。

もっとも別に「構造構成的な考え方」が構造構成主義である必要はなく、現象学でも他の何かでも何でもよい。機が熟しているのだから似たようなことを考える人は出てくるだろうし、そうした類似の考え方が同時に広まっていけばそれでよいのだと思う。

大事なことは、多くの人が幸せに暮らせる条件(価値観、システム、制度)を整えることだからだ。





たしかにそれは簡単なことではないだろう。 特に構造構成的な考え方は、ナイーブに正当性を主張しないばかりか、ある種の“ためらい”を生むため、基本的には少しずつしか広まらない。

しかし、僕はここに書いたように、時節が満ちた秋は、それに適合した思想パンデミックが起きる基礎条件でもある。

そして正規分布のピークが少しずれることで、マジョリティが入れ替わり、それによってそうじゃないひとも、そうであるフリをするようになる(せざるをえなくなる)。そして長い間フリをしているうちに、それが染みついてそうなっていく。

こうして、時代的な価値観はいつのまにか変わり、「自他の関心を踏まえた上でより建設的な考え方を出していくゲーム」をすることがマジョリティになったとき、構造構成主義の役目は終わるのかもしれないが、しかし信念対立を引き起こす構造は、人間の認識の根本にその起源をもつため、少なくとも「関心相関的な考え方」はその名は変えても義務教育に組み込まれるなどしていく必要はあると思う。

おおげさに聞こえるかもしれないが、これはおそらく日本のあらゆる問題を、そして世界的問題を解決するための最も効果的な一歩なのだと思う(そして実際都内の教育委員会の有識者会議に招聘されることになったりしている)。





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Last updated  2009/05/31 08:31:10 PM


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