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最近、ある本を読んで、学的信頼を保つことの大切さを考えさせられた。
学者の中でも、少しの慎重さがあれば避けられるのにそれを省略することで、大きな間違いを犯してしまうひとがいる 学者は、信頼が命だ。 決定的な間違い(単語が間違っている)、誤読、いい加減な記述が散見されるならば、信頼に値しない学者と認識されるようになる。 そしてその認識は全業績に及ぶことになる。 学者にとってこれほど怖ろしいことはない。 若い頃はまだ大目に見てもらえるし、無名の頃はそもそも多くの人に読まれる機会もないからまだよいかもしれない。 しかし、有名になればなるほど、影響力を持つようになり、またいろいろな人に読まれるようになる。周囲の自分に対する認識が大きく変化しているのに、それに気づかずに、不用意にどんどん量産するだけではいずれ足をすくわれることになるだろう。 かつて知の巨人と呼ばれた、立花隆もそうだ。いくつか批判本が出たことで、その名声は地に堕ちてしまった。 批判本というのは批判を目的としているため、読んでも心地の良いものでないが、その批判の内容はおおむね妥当なものだったと思う。 当時院生だった僕ですら、この人いくつか決定的におかしなことを言っているなと思っていた(自己組織化の原理は世界のどこかに実在するからそれを発見したら凄いことだとか)。 批判本の一つにこうした記述があったのが印象的だった。 専門家に意見を聞けば防げるような間違いが防げないのは、学者としての謙虚さ失っているからである。そうした自己検証や吟味を怠って何が知の巨人か、と。 そして立花隆は、僕の知る限り、それらの本に決定的な反論はできなかった。 だからその権威は失墜したのだ。 (これは学者じゃなくても同じだ。ホリエモンも打って出たときはまだ良かったが、有名になったあとも、周囲の目が厳しくなるにもかかわらず同じやり方を通した。その結果、脇が甘くなって、検察にやられた。方法を固定化して変化に対応できなかったのであろう。) まっとうな学者は、間違いを犯さないようにすること、正確に記述するということに、相当配慮している。 それは新しいアイディアを出す、革新的な理論を提示する、学的知見をわかりやすく提示するといったことと背反するものではない。できるだけ間違いを犯さないように慎重な姿勢を底に保ちながら、それらをそれを遂行していけるかどうか。 それが学者とそうじゃないひとの一つの境目なのかもしれない(もちろん学者の方がよいとかいうことではない、そうではなく学者としての信頼を保ちたいという目的に照らすとそういうありかたが大切になる、とうことだ)。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009/12/31 11:46:28 PM
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