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西條剛央のブログ:構造構成主義

西條剛央のブログ:構造構成主義

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西條剛央

西條剛央

2010/05/11
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カテゴリ:構造構成主義
2ちゃんねるを作ったひろゆきさんと勝間和代さんが対談した結果,激論になり,ひろゆきさんが圧勝し,勝間さんが謝罪したというような記事をそこここで見かける。

議論のテキスト
http://d.hatena.ne.jp/wt5/20100503
勝間謝罪
http://kazuyomugi.cocolog-nifty.com/private/2010/05/52-7a45.html
ひろゆき補足
http://hiro.asks.jp/68256.html

確かにどちらが論理が通っているかという観点からみれば,ひろゆきさんが「圧勝」というのはわかるけど,勝間さんが「直観」していたことは,それほど的外れなものではないようにも思う。

いずれにしても,どちらが勝ちかという見方から得られるものはあまりないだろう。


この二人のやりとりをみて考えたことを書いてみたい。


まず勝間さんは,直観的は間違っていないところがあるのだけど,議論の仕方がまずかったように思う。

たとえば,議論になっている匿名性についても,(1)「匿名でも何でも良いのだ!」というコミュニティ(代表が2ch)と,(2)本当に実名を書いているかどうかはわからないけど(それはホテルの受け付けとかでも同じこと),基本的に実名を書いてやりとりするべきとされていて,それに反した人は(名無しとか),そのこと自体で罰せられる(サービスを受けられなくなる)可能性があるコミュニティでは,議論等々の健全性は雲泥の差なのは,中学生でもわかる。

当然,犯罪的な書き込みの多さは桁違いに変わってくるだろう。勝間さんの「コスト」という言葉と文脈から察するに,おそらくそういう議論をしたかったのだと思う(僕が二人の対談の司会だったらと補足確認しただろう)。

しかし,その辺をすっとばしてしまい,コストとか言って犯罪的書き込みの際のトレースのコストとかの話にしちゃうから,論理が通らなくなる。

そして,直観的に自分は間違っていないはずなのに,ひろゆきさんにいいようにやられているという状況が受け入れがたく,より感情的になって,墓穴を掘りまくる,というやりとりにみえた。



さて,ここからが核心だ。

思想的な観点からおおざっぱにいうと,

勝間さんは「規範の唯一性」を前提とする点で「モダニズム的な考え方」

ひろゆきさんは「規範の多様性」を前提とする点で「ポストモダニズム的なの考え方」ということができる。

ポストモダニズム(ひろゆき氏)の立場からすれば,モダニズムのように自分の信じる価値観を臆面もなく正しいとして押しつけてくるような輩は,忌むべき最大の敵といっても過言ではない。

彼はその後の「補足」で,寝不足で機嫌が悪かったと言っているけど,おそらくそれだけではなく,勝間氏は(あまり怒らなそうな)彼の逆鱗に触れるタイプの(良くも悪くも)古い人間だったのだ。絶滅したはずの古種にふいに出会って,びっくりしてしまったのかもしれない。

他方で,モダニズム(勝間氏)の立場からすれば,「何でもありでいい」を結論にしてしまうと,個々人の人生も,社会もメチャメチャになってしまうから,それは認めるわけにはいかないのだ。

前提が違うわけだから,双方が相容れるわけがないのは当然のことなのだ。


さて,それではどうすればよいのだろうか?

先に述べたように,モダニズム(勝間氏)は「規範の唯一性」を正しいものとして前提とし,ポストモダニズム(は「規範の多様性」を正しいものとして前提としていると考えれば,「特定の正しさに依拠している」という点では実はコンテンツが違うだけで,思考の型としては同型といえなくもない。

まずこのことを押さえる必要がある。

その上で,(関心相関的に)双方の関心を洞察してみよう。

勝間さん的思考を上手に?言語化するならば,こんな感じだろう。

「何でもアリとなってしまって誰もお金を稼いだり,企業したりしなくなってしまっては,社会は成り立たなくなってしまう。やはりそういう規範があって社会は健全に回るのだ。だから何でもありでよいという関心は認めるわけにはいかない」

ひろゆき氏の思考は当人が言語化しているように,こんな感じだろう。

「お金を稼ぐ人が正しい,社会的成功者だけが良いとなってしまっては,成功できない大多数の人は不幸ということになってしまう。そんな価値観を認めるわけにはいかない」

では,どちらが正しいのだろうか?

このような二者択一的問いからみる限り,おそらくこの問題を解くことはできない。

またこれに対して,どちらも半分正しく,半分間違っている,ということは簡単だが,そのような言明を物知り顔でいうだけでもまた何も問題は解決しない。


関心相関的観点からいえば,正しい,間違っているといった価値判断は,すべて関心に応じて立ち現れるということになる。

この観点から,勝間氏が依拠している規範を関心として相対化すれば,さしあたり「社会を機能させるためにある方向性に導く」という関心を持っている,ということができる。

勝間さんの良くないところがあるとすれば,それを絶対に正しい規範として疑いもなく信じている(と相手が受け取ってしまうような言動をしてしまう)ところだろう。

そういう構えは,その規範に当てはまらない人を排除するつもりがなくとも,結果的に排除することになるため,多くの人を傷つけることになる。そして傷つけた分だけ怒りとして跳ね返ってくる。香山リカさんもやはりこの点に噛みついたのだ。

この構えを改めない限り,彼女は多くの負の念(コメント)に晒され続け,いつか消費されつくされたときに破綻してしまうかもしれない。

勝間さんにとって,自分の関心を相対化する意味は,ここにある。

(一応勝間さんは早稲田のMBAの院生なので,一教員として機会があったら指摘してあげたいところだが,金儲けに役に立たなそうな僕の授業をとるわけもなく(笑),当然会ったことはない)



さて,関心相関的観点はひろゆきさんにとっても意味がある。

彼がいうお金を稼ぐといった規範を絶対化することで,多くの人が幸せにならないのはおかしいという直観は妥当なものだが,だから何でもありでいいのだ,という結論に終止していては,勝間さんのような人を心から納得させることはできない。

勝間さんはホストとしてまずかったという点で(あるいは自分に対する批判を収めるために)形式上謝っていても,絶対に自分の直観は間違ってはいないと思ってるはずだ。

ひろゆきさんは自分の関心に対して勝間さんよりは自覚的だろうが,「規範の多様性」を終着点としている点において,限界があるように思う。

確かに,多くの人の幸せを担保するという関心からすると,規範の多様性というのは有効である。

ただし,それだけでは社会は回らない。(関心相関的観点を自覚的に用いて)社会を成立させるという関心からみると,たとえば「働かない人よりは働く方がよい」という価値観は社会を成立させるために有効なツールになるのだ(勝間さんの主張のも一理あるのだ)。

したがって,おそらく次のような言い方をすれば,勝間さんのような人(モダニズム的な人)も納得するのではないだろうか。



「お金を稼いだ方がよいという価値観は,社会を成立させるための一つのツールとしてなら僕は一定の有効性があると認めます。

 ただし,絶対に正しい規範のような言い方は人を傷つけることになるので,そういう言い方ではなく,お金を稼ぐという価値観は正しいものではないけど,社会の競争力を落とさないことは日本を他国から守ることにもなるし,社会が破綻したら誰も幸せにならないから,そのためにはそうした価値観はある程度有効な考え方なんです,という言い方をすればよいのではないでしょうか。

 またそういう価値観に共感する人には,その場合こういう考え方が役立ちますよ,という言い方をした方が,より多くの人に受け入れられるように思います。それが勝間さんの言いたいことなのではないでしょうか」と。



 また二人のあり方からわかることとして(もちろん僕もも身に覚えがあるが),何事も主張が“強くなりすぎる”と,それが違う副作用を生み出してしまう,ということもあるだろう。

 勝間さんは先に述べた通りその典型的なタイプだが,好意的にみればひろゆき氏が社会的に発言力をもたない人達でも自由に主張できるように?生み出したかもしれない2chも“力”を持ちすぎたことで,多くの人を不幸にしてきたのも事実のように思う。


 もう一度二人の関心を少し違う角度から言い当ててみると,勝間氏は,社会を健全に?機能させつつ,(女性が)上昇志向の強い人が上手に努力するための「方法」を提供することに関心があるようにみえる。

 それに対して,ひろゆき氏は,必ずしも社会的に成功できない人も,それぞれの「幸せ」を享受できるような社会を作ることに関心がある,と考えることができる。

 こう考えると,二人ともそれぞれの思う関心(信念)に照らしながら,社会を良い方向に導きたいという関心を持っているという点では共通しているのではないだろうか。

 双方とも自他の関心を可視化した上で,それぞれの信念を,よりよい社会を構築するための一つの「ツール」として位置づけ直すことで,少なくともそれをしないよりは,分かり合い,お互いの主張の意義を受け取ることができるようになると思う。

 このように信念対立に陥ってしまったときは,
(1)関心相関的観点から自他の主張の背景にある関心を相対化(対象化・自覚化)し,
(2)お互いがなぜそのような主張が正しいものだと確信しているのかを問い直し,
(3)それぞれの共通目的を可視化した上で,それぞれの関心をその共通目的化に位置づけ直す
という作業をすることで,分かり合える可能性が生まれるのだ(このようにまとめるとわかりにくくなる)。

 構造構成主義(関心相関的観点)は,モダニズムvs.ポストモダニズムといった信念対立に陥って,にっちもさっちもいかなくなったときに,分かり合う可能性を生み出すための「考え方」を提供するツールなのである。
  
 
 
 と,こんな風に構造構成主義は世界を幸せに近づける思想的ツールとして役立つのだ,とか偉そうなことを言っている自分はブログの更新すら久々で,3月に公刊した『持続可能な社会をどう構想するか:構造構成主義研究4』の告知すらできていない始末 orz...

 すいません。近々ちゃんと宣伝します。







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Last updated  2010/05/12 03:00:15 PM


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