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カテゴリ:家族
5月10日。実父は、自分の病気を知る余地もなく、旅立っていった。
4月下旬から、食欲もなく、ベット上で、胸痛と戦っていた。 5月8日の夜。意識レベルも低下し、 これまでの痛みがどこかに飛び去り、深い眠りについた様な安楽な表情だった。 そして、10日未明、私の付き添いのもと、徐々に脈も、微弱になり、 意識も戻ることなく、新たな旅に出発したのでした。 直接死因『癌性心外膜炎』 私たち家族へ、究極の選択が突きつけられた。 まずは、延命処置。 処置しても、一時的なもので、良くなることはないと、 説明を受けた。 処置しないと言うことは、見捨てるようで、嫌だった。 また、せっかく安らかな表情をしているのに、 気管チューブや、レスピレーターを装着し、 これ以上痛々しい姿に、させたくなかった。 結局、母と弟と相談し、後記を選択した。 はっきり言って、ほんと難しい選択だった。 今でも、果たしてこれで良かったのかと、疑問に思う。 そして、もうひとつ。 死体解剖。 最初、はっきりした原因を知りたい場合は、解剖をして・・と、 先生は、言い出した。 弟は、『これ以上、痛めつけて欲しくない。 すぐに、自宅に、戻したい。』と言う。 しかし、私は、父の本当の死因を知りたかった。 でも、弟の言ってることも、納得する。 すると、先生、 『これからの患者さんのためにも、解剖させて欲しい』 と、頭を下げてきた。 私としては、私の勤務していた病院であるし、 医療従事者として、父の解剖によって、 これからの患者さんの治療に役立つのであれば、協力したかった。 また、死因を明確にして欲しかった。 弟も、何とか、納得したのであった。 解剖の結果は、 『心外膜腫瘍、心筋内へ浸潤。左癌性胸膜炎、両側肺水腫、 胸膜プラーク(アスベスト等による胸膜肥厚班)』 詳しくは、病理検査中である。 思えば、 亡くなる数日前、頑固で、ありがとうの言葉も言った事のない父が、 『毎日、たいへんだな。ありがとう・・・』と、言ったり、 入院中、母に泊まって欲しいなんて言った事なかったのに、 意識の無くなる夜に、泊まって欲しいと、言ったり、 むせりながら、飲んでいた水も、 その夜に、私に要求し、安易に飲用し、母が、ビックリしていた事など、 頭の中を過る。 ただただ後悔することは、 看護師である私が、看護を父にしてあげられなかった事。 そして、何の親孝行もできなかったこと。 母に任せきりにせず、仕事を休んで、看病すべきだった。 こんなに、急展開するなんて・・・・・ でも、父は、母に毎日付き添ってもらっていたことは、 幸せだったと思う。 父の葬儀の1週間後、 私の、先月の注腸造影の結果説明と、腫瘍マーカーの再検だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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