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昨夜北海道に戻って参りました。 親父は発見に至らず。無念です。 現地は想像を絶していました。
出発は地震発生から5日経った15日夕方。 職場のみなさんから温かいエールを頂き、飛行機で秋田空港まで。 いわて花巻空港は当時閉鎖。 東京にいる妹と落ち合う。 妹も限界だったようだ。 俺の顔を見るなり泣きじゃくった。 ホッとする半面、これから現実が待っているという気持ちだろうか。 妹は22歳。 これから花嫁姿と孫の顔を親父に見せるのが夢だっただろう。 小さい時は我がままで親父とよくぶつかっていた。 高校を卒業して東京で就職。 親のありがたみが身にしみていた頃だろう。 思わず一緒に泣き出しそうになったがなんとか堪えた。 そこから盛岡にいる叔父の車で盛岡まで。 道中、21時頃、閉店しているガソリンスタンドに長蛇の列が。 明日10時の開店まで車で一夜を過ごすらしい。 もちろんエンジンは切った状態。 叔父の車も実家の宮古まで行って帰って来る分しかない。 そこで盛岡に住む甲子園出場時の戦友に電話。 親父さんが建材屋さんを営んでいる。 叔父の車はディーゼル車のため軽油がないか聞いてみる。 すると緊急の為のストックがあるから寄れとのこと。 到着すると戦友と親父さんと従業員の方が軽油を準備して待っていてくれた。 自宅から会社までは結構遠いし、22時という時間。 ましてやこの日は雪の降る寒い夜。 熱いものが込み上げてきた。 泣いている暇はない、と親父さんに背中を押される。 うちの親父と戦友の親父さんは深い交流があった。 高校卒業から11年経った今でも、1年に1回開催されている父母会では二人は盛り上げ役だ。 そんな親父さんの想いも胸に刻む。 この時の給油は現地での活動(水汲み、食料調達、安置所巡り、海岸捜索等)をかなり楽にしてくれた。 というかこの時の給油がなければほとんど活動はできなかった。 戦友とは野球部の寮で同部屋だった。 たくさん喧嘩もした。(ほぼ毎日) 苦楽を共にした。 叔父が同じ釜の飯を食った仲間はすげーなーと言っていた。 今でも戦友達は兄弟以上の存在だ。 本当にありがとうございました。 この日は叔父の家に1泊。 翌早朝に宮古市に向け出発。 前日の戦友からの情報だと国道の入口に警察がいて緊急車両しか通していないとのことだった。 最悪強行突破だ。などと意気込みながら向かったがあっさり通してくれた。 どうやらこの日から規制が緩和されたらしい。 そこから約2時間。宮古市に到着。 山側の方はいつもと変わらない様子。 しかし宮古市役所が見えたと同時に戦慄が走る。 大きな漁船が宮古大橋の下に挟まっている。 道路も瓦礫と泥でぐちゃぐちゃだ。 テレビでいろいろ見て、覚悟はしていたが想像を遥かに超えた惨劇がそこにはあった。 オレも叔父も妹も言葉を失った。 宮古市内は壊滅状態。 市内から北へ15分くらいのところに実家がある。 車はほとんど走っていなかった。 ガソリンスタンドが機能していないからだ。 結局ガソリンスタンドでまともに給油できるようになったのは28日くらいではなかろうか。 それでも朝7時に並んで1時間は待った。しかも2000円12リットルまで。 戦友のおかげで叔父が帰る25日までは1度も給油することなくフルに活動できた。 実家に着いたときのことはあまり覚えていない。 同居している姉が出てきたと思う。 妹は車を飛び降り姉と抱き合って泣いていた。 妹は「遅くなってごめん」と姉に言っていたと思う。 そして妹が母と抱き合って泣いていた。 オレも大量の荷物も下ろさずそこにいたと思う。 オレも母と抱き合っていた。 母は声を上げて泣いていた。 いたずら坊主のオレをモップを持って追い回していた最強の母がだ。 オレは「オレが来たからもう大丈夫だ」と声を掛けた。 涙が出そうになるのを必死で堪えた。 泣きたいときは泣けばいいって誰かが言っていたけどオレはここで泣く訳にはいかない。 母は震災後、初めて声を上げて泣いたと言っていた。 よっぽど気を張っていたのだろう。 父の捜索はもちろんだが家族を支えるのが今回の大きな目的だ。 姉もその通りだった。 普段は気の強い姉。そういう人に限ってひびが入ったらもろい。 A型同士で親父に性格が一番似ている姉はよくけんかをしていたようだ。 逆に意見が合うときはぴったりとハマルらしい。 父と最後に会ったのは姉だ。 地震でガラスが外れたお雛様を二人で下ろそうとしていたがうまく下ろせずそのまま父は海に向かった。 あの時もうちょっと間誤付いてればと姉は悔やんでいた。 結局最後まで二人はけんかしていたらしい。 地震が起きたとき、父と母と義兄は浄土ヶ浜に居た。 去年からはじめた「はんもうどの海」の再開のためだ。 「はんもうど」とは地元の言葉で「漁師」という意味だ。 衰退している漁業の活性化のため、親父が立ち上げた漁師直売りの牡蠣やホタテの炭火焼きハウスだ。 詳しくはこちら。 http://otona.yomiuri.co.jp/trip/news/100906tb03.htm?from=otonatop やっと軌道に乗り出していた。 いろんな苦労があったらしい。 毎日毎日会議があり、人間関係もあり、お金の苦労もあり。 朝早くから仕事、海から上がり昼から夜まで用事、また朝早くから仕事、 というのがここ最近の父の1日だったようだ。 このほかにも漁協の理事、消防団、民生委員、公民館の参事、など地元の為日々駆け回っていたようだ。 そんな親父を心配して、毎日のように関係する方や近所の方が実家を訪れた。 みなさんの言葉の端々から親父に対する信頼感を感じた。 親父が何十年もかけてコツコツと築き上げてきたものだ。 親父は30歳の時に脱サラして母方の実家で営んでいた漁師になった。 元々は市内のほうの出身で現在の地は出身地ではない。 いわばよそ者の親父が率先して地域活動に取り組んだ。 いろんな苦労があっただろう。 それが形となり始め、これからという時に、無念。 母の兄(親父の師匠)も「もう少し暴れさせてやりたかった」と無念の言葉。 ほんとに悔しいの一言。 実家での被災地生活は大変だった。 1週間は電気と水道が止まっていた。 水は近所の井戸から調達した。 この井戸にもドラマがあった。 以前に子供たちが落ちたりしたら危ないから埋めるという話があったらしい。 しかし親父の師匠である叔父が「何があるかわからない、必要とする時が来るかもしれない」 と井戸の存続を強く求めた。 そして、危なくないように井戸の蓋を自作した。 結果、井戸は存続され今回の「必要とする時」が訪れた。 実家の集落の住民がこの井戸に頼った。 朝一番、もしくは夕方に水を汲みに行くのが日課になった。 水を多く使うのがトイレ。 その為、男は外で済ませた。 大も穴を掘って済ませることもあった。 歯磨きもコップ1杯の水をみんなで使った。 電気がないのは精神的にもやられた。 夜はガスランタンを使用した。 家の中を歩くのも懐中電灯が必要だ。 その為夕方5時にはご飯を食べ終え、7時には寝た。 しかし、この状況の中でも良い事もあった。 食事後はみんなで昔話をした。 叔父(親父の弟)も一緒に生活していたので、家族も知らない親父の昔話を聞くことができた。 こんなことがなければ聞くこともなかっただろう。 そして親父はオレの事を「甘い!世の中を舐めている!」と愚痴っていたらしい。 たしかに。 学生結婚、就活もせず野球で地元の信金に就職、3年で辞めて北海道へ。 苦労人の父からみれば相当甘かったのだろう。 直接オレに言ったことはないけれど感じてはいた。 北海道に行くことに関しては何も言わなかったが、 信金を辞めるときは「お前が信金に就職した時に、お前のせいで就職できなかった人がいる、そのことを忘れるな。」 と言われた。 言われたときのことはよく覚えている。 親父はそういう人間だった。 結婚するときに言われた言葉も、「お前は周りの人に生かされているんだ、勘違いすんなよ」だ。 あんまり腹を割って話すことはなかった。 一緒に飲みに行ったのも2回くらいしかない。 お酒が好きな親父だったので、息子と飲みに行くのは夢だったに違いない。 その2回とも親父は楽しそうに飲んでいた。 スナックのママには「これが甲子園に行った俺の息子だ」と酔っ払いながら話していた。 一緒に兄弟船を歌った。海その愛も歌った。 もっと一緒に酒を飲みたかった。 自分自身も親になって分かった事がたくさんある。 まともに感謝の気持ちを伝えたこともない。
そんな話を毎晩みんなで語り合った。
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Last updated
2011.04.02 16:52:29
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