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我が家の3姉妹日記。サクアーミー 

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sakutan34567

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いぬ日記。 MUCK&IZU MUCKさん
inunikki izu&muck 2 izumuckさん
*** LIGHT HOUSE *** coppen345さん
2011.04.02
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カテゴリ:カテゴリ未分類

毎日寒い日が続いた。

母と妹と甥っ子と4人で枕を並べて寝た。

こんなことも一生無かっただろう。

などと考えながら布団に入っていた。

布団に入って目を瞑ると親父の事を思い出す。

どんな想いで逝ったのか、津波は恐怖だったろうな、必死に逃げただろうな、どっかに生き延びていたら寒いだろうな、などなど。

あまり眠ることはできなかった。

夜が長かった。

朝は5時くらいに起床した。

朝ごはんを食べ終えると活動が始まる。

市内に親父の弟(3番目の)が住んでいてそちらの復旧が早かったため、洗濯機やお風呂を借りに行った。

かなり助けられた。

ガスランタンもアウトドアな叔父が持ってきてくれたものだ。

その他にも飲み水やお米など運んでくれた。

オレが実家に行くまでの間、家族を勇気付けてくれた。

遺体安置所にも通ってくれた。

午後はその遺体安置所へ。

避難所の小学校に、車も流されて安置所にいけない人が何人かいた。

その方たちを車に乗せて毎日通った。

安置所では受付があって、流された場所や親父の特徴などを登録する。

そして容姿が似ている人がいれば確認する。

仕事でいくらかは慣れているとはいえ、毛布をめくってそれが自分の親父だったらと思うと足が震えた。

安置所に収容されていてほしいようなほしくないような、複雑な心境だった。

通い始めて5日目くらいに流された場所は違うが、一緒に安置所に行っていた方の旦那さんが見つかった。

まだ50代くらいだろう。

奥さんと二人暮らしだったらしい。

親戚の家も津波で流されて一人で避難所にいた方だ。

奥さんが一人で寂しいだろうから最悪の形ではあるが上がってきたのだろう。

やさしい旦那さんだ。

確認した時は震えてまともに話もできない状態だったが見つかってほんとに良かったと思う。

このような感じで1日が終わる。

甥っ子二人は時間を持て余していた。

小学校の長男(2年生)は学校はしばらく休み。

震災後、終業式で1日学校に行ったくらいで4月25日まで休みだ。

そんな長男はジィジっ子だった。

親父が行方不明になって2、3日は塞ぎ込んでいたらしい。

そんな孫の姿が一番堪えたと母が言っていた。 

自転車も買ってもらい、春からは一緒にサイクリングする予定だったらしい。

義兄も消防団で、日中は捜索があるため、少しでも気晴らしになればと思い甥っ子とサイクリングに出かけたりもした。

それでも海に行くとジィジを思い出すらしく、海を見ながら涙を流していた。

これからの心のケアが大事だ。

甥っ子には強くなってほしい。

最大のバックアップをしたいと思う。

義兄も親父と同じで脱サラで漁師になった。

地震の時も親父と一緒に居た。

水門を閉めに軽トラで一緒に海に向かった。

最初の水門はすでに閉まっていた。

そこに分団長が一人で居たため、義兄に分団長と一緒に居ろと義兄を車から降ろした。

親父はそこから津波で流された海まで一人で行った。

義兄は分団長と後から来た消防ポンプ車で難を逃れた。

義兄に「生きていてくれてありがとう」と言った。

今は家族の支えとなってくれている。

そんな義兄とオレは馬が合う。

年も一つしか変わらない。

正確には4ヶ月しか変わらない。

O型コンビで、オレと同じどうにかなるさ精神の持ち主だ。

そんな義兄に助けられた。

本当によく生きていてくれた。

親父はなぜ義兄を降ろしたのか分からない。

何か感じていたのか。

親父にも感謝。

被災地生活2日目。

3月17日は苦しくも親父と母の32回目の結婚記念日だった。

妹が大荷物の中、大事そうに持っていた紙袋があった。

東京に行った後、毎年結婚記念日に贈っていた花だ。

母は花が大好きだ。

思わず母は涙した。妹も姉も。

こんな気遣いをさせたら妹はナンバー1だ。

17日はささやかではあるが、みんなで結婚記念日を祝った。

親父は写真だが参加した。

一生忘れられない親父と母の結婚記念日となった。

一週間ほどで水道が復旧し、その後電気も復旧した。

電気は最高に感動した。

やはり気持ちが楽になる。

テレビからの情報も得られる。

甥っ子たちもDVDも見れたりと少しはストレス解消になる。

お風呂にも入れる。

洗濯もできる。

おかげで日中に時間ができたので行けるところの海岸へ捜索に出かけた。

しかし陸からの捜索には限界があった。

海から船で捜索できればよかったのだが、危険ということで一般人が船で捜索することは禁止されていた。

安置所に行っても収容数が日に日に減少していった。

長引くことは明らかだった。

南北の安置所にも足を伸ばしたが成果はなかった。

そんな中、釜石にいる妻の友人家族の安否が確認できた。

岩手日報の避難者リストにカタカナで名前が載っていた。

妻に確認の電話をしたら、本人、旦那さん、子供達の名前がぴったりだった。

実家に来る前に年賀状の住所から地図で場所を確認したら、家の前が海だ。

3人の子供、末っ子は生まれてまだ2ヶ月。

逃げるのに時間がかかったろうと心配していた。

電話も繋がらずネットでも確認できていなかった。

こういう朗報は心が安らぐ。

この他にも東松島で小学校の先生をしている友達の安否も確認できた。

生きていて本当に良かった。

妻も安心しているようだった。

私の地元の友人たちは全員無事だった。

親父を心配して家まで来てくれた。

10年振りの再会だ。

昔話に花が咲いた。

落ち込んでいた気持ちも楽になる。

次回は酒でも飲みながらと約束を交わした。

ほんとにありがたい。

25日に叔父が盛岡に帰った。

秋田まで迎えに来てくれたり、安置所まで行ったり、買い物に行ったり、捜索に行ったりとかなり力になってくれた。

仕事もあるのにほんとうにありがとうございました。

それから間もなく29日に一旦北海道に戻ることを決めた。

妹も同じ日に戻ることになった。

ライフラインも復旧し、ガソリンも入れられるようになった。

買い物もできるようになった。

食糧を何日かに分けて買いに行き、母が会長を務める地域の防火婦人クラブのみなさんと避難所に炊き出しにも行った。

温かい豚汁はみなさんに大変喜ばれた。

親父を発見してやることができなかった事だけが心残りだった。

北海道に戻る朝、妹と海に行った。

親父にまた来るからと言った。

母と姉が玄関先で見送ってくれた。

妹と母が抱き合って泣いていた。

オレも母を抱きしめてまた来るからと言った。

母は泣いていた。

外で妹と姉が泣いていた。

二人をしっかりと抱きしめてオレらなら大丈夫だと言った。

義兄に市内のバス停まで送ってもらった。

別れ際に兄貴に「頼む」と力強く握手した。

兄貴は「まかせとけ」と力強く握り返してくれた。

宮古から盛岡までバスに乗り、盛岡から戦友の車で花巻空港まで行った。

盛岡の戦友の店も今回の震災の影響でずっと休んでいるようだ。

大元の会社も被害が大きく、今後の事を心配した。

そんな中、前日に連絡したにも関わらず、快く送迎を引き受けてくれた。

ありがとう。

空港では妹が先に飛行機に乗って東京に向かった。

一人で誰もいないアパートに帰るのは心配だったが、どうやら彼と同棲しているらしい。

こんな時は感謝。

やっぱりこんな時一人でいるのは辛い。

飛行機を待つまでの時間から千歳に到着するまでの時間は久しぶりに一人になった。

だいぶ気持ちも収まったかと思ったが一人で居るのは辛かった。

飛行機に乗っている時間が長く感じた。

千歳に妻と子供たちが迎えに来てくれていた。

3人が笑顔で走ってきた。

子供たちを強く抱きしめた。

妻も安心した表情だった。

電話も繋がらず、ろくに連絡も取れなかった。

あんなTVの映像を見せられて、そこにオレが行くって言うんだからすごく心配したに違いない。

感謝の気持ちでいっぱいです。

親父のおかげで家族の絆は深くなった。

口で言うと薄っぺらい感じがするけど。

家族を失った家族の痛みは相当深い。

こればっかりはなってみないと分からない。

オレは家族の為に絶対に死なない。

こんな想いはさせたくない。

そして家族を大切にしよう。

なんでもない普通の毎日がとても幸せだと思う。

周りの人に感謝しよう。

家族が居なかったら無茶な現場に飛び込んでいた。

家族が居なかったら立ち直れなかった。

仲間が居なかったら何もできずに終わっていた。

オレは周りの人に生かされていた。

親父が言いたかったことがわかった。

この気持ちを絶対に忘れないためブログの更新に踏み切った。

今は親父に感謝の気持ちでいっぱいです。

30年という短い間でしたが大変お世話になりました。

明日がちょうどその30年です。

ありがとう親父。

おやじ2.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 






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Last updated  2011.04.03 10:05:39
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