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巡る季節を楽しみながら・・・

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2014年08月09日
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カテゴリ:女性学級

今日は長崎の原爆の日です。
先日コーラスで歌った「長崎の鐘」の歌詞に感動し調べてみました。

こよなく晴れた 青空を     召されて妻は天国へ       こころの罪を打ち明けて
悲しと思う せつなさよ     別れてひとり 旅立ちぬ     更け行く夜の 月すみぬ 
うねりの波の 人の世に     かたみに残る ロザリオの    貧しき家の 柱にも
はかなく生きる 野の花よ    鎖に白き わが涙        気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の   なぐさめ はげまし 長崎の   なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る      ああ 長崎の鐘が鳴る      ああ 長崎の鐘がなる                          

長崎医科大学の放射線科の医師であった永井隆博士が長崎での被爆体験を生々しく語った著書「長崎の鐘」の内容をテーマと
して作られた歌謡曲
サトウハチロウ作詞 古関裕而が作曲し、藤山一郎が格調高く歌い上げた歌でNHKの のど自慢で多くの人に歌われた
事を覚えています

永井隆氏は長崎医科大学の医者であり大学ではレントゲン撮影の研究をしていた。

昭和6年の満州事変以降日中間の対立が深まるなかで永井も召集を受ける。 戦地では軍医として負傷者の手当に従事した。
このときの経験から彼は信仰に目覚めていく。翌年復員してから洗礼を受けカトリックの信者となった。

放射線研究の奥深さにとりつかれた永井は毎日研究に没頭する。
昭和9年には妻・緑と結婚、さらに誠一、茅乃という二人の子供が生まれ充実した歳月が流れていく。
しかし当時の研究室は設備も貧弱で放射線を防ぐための充分な安全対策が取られているとはいえなかった。
そのような環境で研究を続けた永井は放射線を浴び続けたことによって白血病となり余命3年と宣告されたのである。
だがすでに信仰に生きることを誓っていた彼は残り少ない命を放射線研究に捧げることを決心し益々研究に打ち込んでいった。

昭和16年の真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争は年を追うごとに激しさを増して いた。
昭和20年8月9日、この日も永井はいつものように大学で研究していた。
窓の外が一瞬ピカッと光ったかと思うと次の瞬間凄まじい衝撃波で大学の建 物はガラガラと崩壊した。
しばらく瓦礫の中に埋まっていた永井はやっとの思いで救出され外に出たとき我が目を疑った。

そこには今だかつて見たことのない光景が広がっていた。見渡す限り、建物という建物が姿を消し、大地が燃えさかっていた。
夥しい数の黒焦げの死体があちこちに転がっている。まさに火焔地獄とはこのことである。

永井自身も頭部に重傷を負っていた。
包帯をきつく巻いて止血してもその包帯がすぐに真っ赤に染まり血液が汗のように滴り落ちた。
大学病院の建物は崩れ落ちていたが次々と重傷患者が運ばれてくる。
その多くは全身がひどい火傷で皮膚がめくれあがり見るも無惨な姿で呻き声をあげていた。
医療器具も薬もほとんど無いなかで徹夜の応急処置が続いた。
そうこうして いる間にも地面に寝かせている負傷者たちが一人また一人と死んでいく。
永井の同僚たちの多くも行方不明だった。生き残った医師や看護婦は自分達の傷の手当も忘れて走り回った。

数日後負傷者の救護活動がとりあえず終って永井は浦上天主堂に近い自宅に向かった。
これだけの大きな被害では我が家も無事ではないだろうと心配しながら疲れ果てた体を運んだ。
そこにあったはずの我が家はどこにもなかっ た。
呆然として立っている永井はふと、一人で留守番していたはずの妻の ことを思い出した。あのピカの日以来連絡がない。
もしやと思いながらあた りを見回すと台所があったあたりに何やら黒っぽいかたまりが目についた。
それは焼け残った骨盤と腰椎だった。そばには妻がいつも持っていたロザリオが落ちていた。
このとき彼はピカが落ちた日に真っ先に自宅に帰らなかっ たことを後悔せずにはいられなかった。

サトウハチローの詞は単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌であり、
打ちひしがれた人々のために再起を願った詞である。

ちなみに 「永井博士の作詞の歌」は 「あの子」と題して下記のようです。

 (一)                   (二)               (三)
       壁に残った 落書きの         運動会のスピーカー        ついに帰らぬ おもかげと   
 幼い文字の あの子の名        聞こえる部屋に 出してみる       知ってはいても 夕やけの
 呼んでひそかに 耳すます       テープ切ったる ユニホーム       門に出てみる葉鶏頭(はげいとう)
 あゝ あの子が生きていたならば   あゝ あの子が生きていたならば     あゝ あの子が生きていたならば

 
親が子供に対する思いは永遠の愛 ですね! 

(この文章の大半は資料を抜粋しただけのものです・・・
サトウハチロウの詩といい 永井博士の詩といい良い歌詞ですね・・・そして古関裕而の作曲も・・・ハート






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最終更新日  2014年08月09日 11時20分47秒
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