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カテゴリ:アメリカよもやま話
んでるさんのテーマから・・・
大和撫子。 この言葉を初めて意識したのは、カリフォルニアに移住してからだ。アメリカ人の元夫と結婚し、その家族の一員として「アメリカ」という新しい文化を受け入れようとすればするほど、自分の中の日本人としての誇りのようなものが、どんどんふくらんでくるのだ。 アメリカのやり方を受け入れながらも、日本ではこうだ、私は日本のこのやり方の方が好きだ。あるいは逆に日本ではこうだが、アメリカのこのやり方の方が合理的だ、などとそのつど双方を比較し、自分にあったやり方を柔軟に受け入れてきたつもりだ。 それでも、アメリカで暮らし、どんどんその社会になじんでいきながらも、ますます日本語の美しさ、継承されてきた文化の奥深さ、日本古来の女性の芯の強さと奥ゆかしさ。そういったものに目を向けないではいられない。 アメリカ人の中には日本人に対して、見当はずれの妄想を抱く輩もいる。「三歩下がって主人の後ろを歩き、三つ指ついてお帰りなさいという」などという古めかしい日本女性の存在を信じている者もいたし、中には「日本の妻は、夜は寝床でセクシーなキモーノに着替えて、主人に仕える」という爆笑ものの妄想を抱いているのまでいたらしい。実際にお茶会のため着物を着て歩いていたら、「昼間そんな格好で歩いてもいいのかい?寝る時のものなんだろう?」と聞かれた友人もいる。 私の抱く大和撫子のイメージはそういういかがわしいものではなく、背筋が伸びていて、人当たりは柔らかく謙虚でありながら、いざという時は眼光鋭く闘える女性だ。今の自分とはかなりほど遠いが、私の理想でもある。 私は人種というフィルターを通して個人を判断するのは嫌だが、そういうフィルターでものを見られる事が多いのは承知している。つまり、私が、いいにつけ悪いにつけ何かをしでかす事によって『日本人というのは』と判断されるケースがあるという事だ。それならば、責任だって重大ではないか。 どうせならこの外国で、日本人として恥ずかしくない行動を取りたい。日本人は、日本の文化や習慣は素晴らしいと、思われたらやっぱり嬉しい。 この詫びも寂びもない、あっけらかんとしたカリフォルニアでもうこの何年も茶道を習い続けているのも、そんな気持から来ているのかもしれない。そしてアメリカでアメリカ人として育ちながらも、カラダの半分に日本人の血が入っている息子たちに、その自分の中に流れているものを誇りを持ってもらえるよう、母親として大和撫子のはしくれとしてこの地で頑張っていきたいと思っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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