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カテゴリ:証
今日は久しぶりに証を書き綴りたいと思います。 振り返ってみてつくづく感じることは 「イエス様にある希望を知らなかったら 私は生きていなかったかもしれない」 今、私は主によって生かされている命なのだということです。 私は症例数の少ない悪性腫瘍で 化学療法、放射線療法は効果がないとされている病から 主の大いなる憐れみにより癒されました。 この病で合計3回(ポートの埋め込みを含む)の手術を受けています。 その事実上最後の手術の際、主治医の外科医から 「今後、対処のしようがありません」と言われました。 もう自分ではどうしていいのかわかりませんでした。 そして、術後紹介された腫瘍内科の先生から 「今なら治せます」と言っていただき化学療法を受けることに なりました。一旦は絶望という暗闇の中に突き落とされたけれど その先生との出会いにより一筋の光を見出しました。 その先生は私の1回目の手術が終わった頃から非常勤で こられていた先生で、内科部長がじきじきにスカウトした とても優秀な先生なのでした。 その先生から説明を終えた後、私はとても不思議な感覚でした。 何かが働いている、何か力を感じるという 漠然としているが確かな何かの存在を感じる 何かの流れに乗っているような感覚でした。 とんとん拍子とはこういうことを言うのでしょうね。 当時は真っ只中にあり、それがイエス様だと はっきりわからなかったのですが、今ならはっきりわかります。 イエス様が采配をふるっておられたのです。 ひとつひとつパズルのピースをはまるがごとく きちっきちっと定められた時、場所に配置されていくものなのですね。 私たち罪びとは自分であーだこーだと策略をめぐらせ いろんな思い煩いを引き込んでしまいがちです。 しかし、それらを捨てて一切を主にお任せするという 一見、無謀というか現実から逃げていると思われるような方法が 主のご介入が明らかだと感じます。 まるで溺れている人を助ける時のようですね。 溺れている人を助けるにはその人の後ろから行くそうです。 正面から助けようとすると、溺れている人にしがみつかれて 身動きがとれなくなって助けられないのだそうです。 助けがほしいのであればジタバタせず おとなしくしているほうがいいのですね。 ついついジタバタしてしまいますが そういう時こそ静まるべきですね。 そう、静まるにはイエス様の下に行くのが一番ですね。 読んでくださった方々に 主の大いなる平安が満ちますように アーメン お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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