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ゆかこは口堅そうだから言うけど、私大学やめるかもしれない。
例の女の子が私にこういったんです。 ブログでつぶやくのは…大丈夫だよね?(ちょっと心配になった こう思い立った彼女は、どうせ後期からいなくなるのであれば、と、教授に恨みつらみをぶちまけたってわけです。 …それなら一対一で勝手にやってよ・・・(心の声) 確かに、彼女は辛そうでした。学校。 英語の授業でグループで話してる時、突然泣き出しちゃったりしてたし。 うちの大学の外国語学部は、結構キツイのは知ってたけど、6年前もロシア語かなんかで死んじゃった人がいるみたいで、どうも人生を良い意味でも悪い意味でも大きく左右する学生生活になるみたい。 マイナーな言語は、相当強い意思を持って学びたいと思う人じゃないとキツイ。 大学のネームバリューだけを考えて入学したと語る彼女はそういったんです。(その子は某外国語学科) ちなみに私が今勉強してる第二外国語は韓国語で、かなりはまってしまった私は、むしろ韓国語学科があったら入学したいとすら思います。経済学部韓国語学科とかね。うん、素敵。 ってずいぶん脱線しちゃったけどね、もうちょっと読んでね。 フロベールのコントにこういう話がある。 ある冬の寒い日に一人の聖人が凍てついた道を歩いていた。 彼はその路ばたに凍え震えているライ病人をみつけた。 「着るものをくれ」とライ病人はいい、聖人は自分のマントを与えた。 「まだ寒い。その衣服もくれ」 ライ病人の求めに聖人は自分の着ていたものを脱いで相手の体にかけた。 しかしライ病人hまだ承知しなかった。 「俺の体を抱きしめて暖めてくれ」 言われるままに聖人は彼の体を抱きしめた。 「もっと強く」 と相手は叫んだ。 「もっともっと強く」 そうして聖人がライ病人を強く強く抱きしめるとその体から突然、光が放ち、ライ病人はイエスに変わった。 夏休みは遠藤周作の本をたくさん読もうと思って、もう今いろいろ読んだけど、その中の一冊、 「愛情セミナー」で、彼はフロベールのコントのなかの話を引用し、こう考察している。 なぜなら人生はライ病のように忌まわしいが、 しかし、われわれに自分を強く抱きしめてくれと要求しているのである。 抱きしめろとは、放棄するな、という意味である。 聖人はライ病のように忌まわしい「人生」を強くだきしめた。 人生は「もっと強く、もっと強く」とせがんだ。 そして聖人が人生をもっと強く抱きしめた時、みにくい人生から光が放ったというのである。 人生を抱きしめる。 とても重たい言葉だと思いませんか? 私はそう感じました。 別に抱きしめる義務はない。 聖人とライ病人の関係のように、自分と人生の距離はどれくらいでもいい。 自分で決めるべきだし、責任は自分にある。 それでも、抱きしめるか。 選択する、というか選択できる自由がもう、私の前にあるような気がしたんです。 もちろん、例の彼女にもね。 大学を、やめる…か。 私は彼女に何のアドバイスもしてあげられなかった。 引き止めることもできないし、すすめることもできない。 でも、もし何かいえるとしたら、この本をすすめたかった。 彼女にとって、大学をやめることが人生を抱きしめることなのか、それとも… この夏、私も、自分の人生についてじっくり考えようと思うんです。 自分と向き合う夏。この2ヶ月を無駄にしたくない。 よく食べ、よく寝、よく動き、そしてよく考え、 そうして自分の人生を抱きしめるべく、そう、しっかりと。 さぁて、何から始めようかな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.08.03 00:05:33
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