さてと・・・勝手な葬式観、独り言。
前回の日記で言っちゃったこと(笑)を、思いつくままに書き散らしてみます。もちろん、これは私個人の勝手な思い、考えですので異論やお叱りは、まあ・・・(^_^;)どうぞお手柔らかに。まーたタワゴト言っちゃってるよ、こいつ。と流していただければ幸いです。あ、ちなみにワタシメ。比較宗教学というのは興味ありますが、特に信仰している宗教はありません。同時に何かを信仰されている方のことをどうこう言う気もありません。まぁもっとも、妙な新興宗教とか某教とか某某教とかは大嫌いですけれど。では。今、当たり前のように行われる仏式の葬儀。以前から違和感というか、なんというか・・・習慣として、当然のこととして受け止められればよかったんでしょうが。へそ曲がってます、私。好きじゃない、って。ずーっと思っていました。まずは父の葬儀のとき。頼んでもいないお坊さんが二人もいらして、計三名の読経となりました。今の私なら「一体どこのお大尽の葬儀ですか。お願いしたのはおひとりですのでどうぞお引取りください」くらいの事は言ったと思います。残念ながら当時子供だったこと、肝心の母は動転しまくって人任せだったことで『これ以上ないほど庶民』の父の葬儀に三人のお坊さんが並ぶことになりました。当然お渡しするものもそれなりにかかりました・・・らしいです。後で聞いたら、当時その地域ではお坊さん同士が声を掛け合ってあちこちの葬儀に参加していたとか。生まれた土地とは違う場所ということもあって足元見られたということです。お寺って、お坊さんって・・・日本昔話みたいなのとはちょっと違う、と。コドモなワタシは感じることになりました。次に疑問なのが戒名。歳をとってきた母が次第に自分の葬儀の心配を口にするようになり、その中の一言。「戒名もらうのに何十万か、かかるからねぇ・・・」なにそれ、状態です。このころにはへそも曲がりまくりです。「あのさぁ、母さんが戒名もらいたいならそれは別にいいけれど、 私が死ぬ時はいらないからね」母、ぽか~~~んでしたね。「なんで?」「だって私、仏弟子になる気ないから」そもそも母、最初はこれが分からなかったようです。習慣ってコワい・・・あれはどうしても必要というのではないはずです。特に院号付きの戒名。下手するとン百万といわれるアレ。元々の意味を辿れば、あれって爆笑ものではないでしょうか。いえ、あくまでもワタシ的には、ですが。続く ←続けられれば、という不安定な、続く。 (思いつくまま書いていますの駄文、誤字などご寛恕くださいませ)