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カテゴリ:私自身
あの日は、議会が開催されていました。
3時頃休憩に入り、1階のロービーを通ると、TVに津波の様子が写っていました。 茫然としました。 大学を卒業後、就職をした会社で、仙台の営業所に配属され、福島の浜通り・宮城・岩手などが私の担当地域でした。 私が住んでいた長町も、仕事で行っていた名取・岩沼・相馬・大野・松島・気仙沼・・・多くの町が津波に飲み込まれていました。 すぐに担当部署に情報収集と支援方法について考えておくように指示して、議会に戻りました。 その日から、最初の支援方法を決めて、2日後に義捐金・支援物資の募集を始めました。 たくさんの方々が、紙おむつや粉ミルクや生活用品を持ってきてくれました。 被災地へ物資を輸送する方法も困難でしたが、少しずつ送ることが出来るようになりました。 その後被害の状況が明らかになっていき、若い頃の私の思い出の地が大きな被害に遭ったことをにやり場のない悲しみを感じました。 とてもお世話になった良い思い出の詰まった町々が、悲惨な被害に遭っていることに何かしなければと思いました。 職員派遣の人選の時に、私を行かせて欲しいと申し出ましたが、若手を派遣するから、残ってこれからの支援を考えるように命じられました。 すぐに飛んでいきたい気持ちでしたが、退職前の自分が行くよりも若手の体力のある人の方が良いかなとも思いました。 でも、私には少しは土地勘や東北の生活や人とのつながりがあり、上司に食い下がりましたが、希望は叶いませんでした。 今日で5年が過ぎましたが、記憶は鮮明です。 亡くなられた多くの方々のご冥福をお祈りするばかりです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年03月11日 07時30分53秒
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