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2009.08.17
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前回の遠藤周作『私が・棄てた・女』をとりあげた講座の続きともなっています。
難解なレヴィナスの言葉をH神父様が聖書や遠藤周作の小説から解説してくださいました。まとめることもできないままで、読みづらくなっています。長文なので2回に分けて紹介します。
ーー
ユダヤ人哲学者レヴィナスを解明するために、聖書を経由するとわかりやすいと思い、講座のタイトルを「聖書とレヴィナス」とした。
遠藤周作『私が棄てた女』にレヴィナスの思想が色濃く出ていることを検証。
レヴィナスの思想を理解するために『神なき時代の神』岩田靖夫(岩波書店)を
参考にしながら、聖書、『私が棄てた女』を読んでみる。

レヴィナス「自己同一性の中に閉じこめられている私」ー私は私自身からのがれることはできない
生まれ、過去、現在、あらゆることが規定できる私から抜け出すことからできない者としてここに存在している
私たちは孤独な存在者ー私は私でしかない、他の人にはなれない。重なり合うことはない
親子、夫婦、兄弟、友人でも重なり合うところはない、思い出、共通の時を過ごしてもそこで思うことは別

小説の吉岡は自分はこういう人間だと思っている。大学を卒業し、社会人となり、上司の娘と結婚し、自分の人生を豊かにしようとし、実際にそう生きていく、ゆらがない自己同一性で生きようとしている。思ったとおりの人生が運ばれていく。ミツが人生を横切っても、「自分の小さな幸せを手放そうとは思わない」彼自身の人生は変わらない。その姿を遠藤は描ききっている。そのある意味ずるい人間の姿は、私であり皆の姿。
思い描いた人生をまっとうできたとき、これで良かったんだと思うのだろう。
遠藤周作は自己同一性の中にとじこめられた人間を描ききった。

「純粋な存在することの仮借なさ」を私たちは皆引き受けている。
他の人からある使命をやれと言われたとしても、それはあなたが引き受けたことで、自分の人生として生きる。逃れられない。
ボランティア活動も、あなたが計画し、了解したことという意味では、自己同一性の中から決して出られない。自分で決めた人生の中から出ることはできない。

吉岡を見ると、上昇志向の戦後日本社会の青年、そういう人生を歩むしかない仮借なさを受けていると遠藤周作は見ている。自己へ閉じこめられた。これしか私たちはないのかということを問題にしている。
わたしは私自身によって、隙間なくふさがれている、どんな理想を持っていても、職業に使命を持っていても、その使命もまた自分で自分を隙間なく埋め尽くす。私は自己自身に鉄の鋲で打ち付けられているという言い方もしている、これを孤独といっている。
孤独とは友人がいない、誰も話しかけてくれないということではなく、私が自分自身に鉄の鋲でうちつけられている状態、そこを生きるしかない仮借なさ。
収容所を出て書いた作品は「時間と他者」
その30年後に書かれた主著『存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』
収容所の中でみた人間のあからさまな姿、立場が違っても守衛も収容されている者も生き残ることに釘付けされている。あらゆる手をつくす。何も入ってくる隙間がない、裸の人間を見て書いた彼が、30年後に主体は孤立した単独の主体ではないといいだした。
主体の同一性は外から来るといった、主体とは簡単に言えば「あなた」「僕」。あなたがあなたであるということからは、逃れられない、同じ空を見ても別のことを思い、同じ人生を歩んでも違うことを考える。自分自身に鉄の鋲で打ち付けられている存在なのだけれど、でもその私が自分自身を見いだしていくにあたって、孤立した単独の主体ではないという。
主体の唯一性、同一性(あなたがあなたでしかない)は他者によってあなたが指定されている生きているところからある。例えばコンクールで優勝し他者から認められて自分の才能に気づくというように、他者との関わりで私は本当の私に目覚めていくのではない。
他の世界に出て行って体験学習をすることによって、私は自分の知らなかった自分に目覚めた、これも自分の中に自分を鋲で打ち付けることでしかない

わたしにおける自己の同一性は自己に反して外からくる。
自己が把握することも予期やってくるすることも了解することもできないものであり、私のところへやってくる
レヴィナスがこのように人間を見ていった時に、ちょうど同じことが聖書の中に証しされている。
イザヤ書 
バビロン捕囚で神の民がばらばらにされ壊滅状態、神殿も祭儀も文化も全部破壊されてしまった時代、自分たちの同一性、アイデンティティ、私が私であるという画鋲で打ち付ける壁もなくなった状態。その中で起こった出来事。

イザヤ書の語り手である私は悟った。彼をとるにたりない人間,利用する価値もない人、彼が悪いから神の罰を受けたと考えた、何の社会的影響力もない過ぎゆく人としかと見ていなかった。それなのに、多くの人のあやまちをにないとりなしをしたのは彼であったと見るようになった。私が変わったのは学んだからではない。「他」が私の中にこの変化を起こした。
彼にはまったく価値がないとみなす自己同一性の中を生きてきたのに、動かし難い私が変わったのは、一人の人に出会ったから。なぜ神の僕なのか。こういうことを起こす人だとはわからなかった、レヴィナス的に言うと「届かない」ー了解不可、そんな力を持っているとはわからない。語っている人も思ってもみなかったし、死んでいったその人も人にこんな影響力を与えると想定して支配者に捕まり殺されていったわけでもないし、想定して不治の病にかかったのではなかった。
すべてが人間の目論見を超えている世界の中から確実に力が与えられてきている。確かに実在の彼がいなければ起こらない
単なるイデアの世界、理想の世界ではなく、存在の彼方ではあるが、存在している。この世は闇で、別の世界からテレパシーが送られたのではない。苦しみあえぎ、私から見下されながら死んでいったこの人からやってきた。少なくとも語った人、神の民は変わった。それを他との出会いといっている。
「私が棄てた女」みつは吉岡が好きだけど心は届かない、二人の間に共感はまったくない「時間と他者」で書いたように「私は自己自身に鉄の鋲で打ち付けられている。」
それが吉岡、みつ、人間の姿なのだ。
私が私であること、本当の私捜し、レヴィナスならば、私捜しは、もう一本自分に鉄の鋲を打ち込むことと言うだろう。
自分がみつかるはずがない。自己同一性、本当の自分。この唯一性私が私であるということは自己意識の自分の中からたくさんの力を引き出す、先生や友人と出会って自分の中の能力が開発されていくいうことにより、自己同一性がやってくるのではない。そんなものはレヴィナスに言わせればどこにもない
自己の唯一性とは己に反して外から来る
他者による選びによって、他者に指定されたものとして、のがれようのない責任のもとに他者に仕える者として人間はかけがえのない者でありその意味で唯一なのである。
それゆえ、主体が私は他者の向けてある、主体の意味は他者への奉仕のうちに自己を消耗しつくす、死ぬことの中にある。
レヴィナスはこのような人間の在り方を神の支配といっている。神の支配とは主体性の姿のもとで、私が私の主人である、主体性とは僕、家臣というフランス語と同じ言葉である。
私たちが使っている主体性というより、しもべ性と訳した方がよい。
何者かによって指定された唯一性という姿の中で、隣人にすぐ近くにいる中で、隣人に仕えている中でその人の姿がどこからか表れてくる

たとえば、親が体が弱ったから、親の世話をするうちに私の中から良いものが表れるというのではない。そういうものが私の鋲を抜くのではない。
存在の彼方とは、今生きている私、矛盾や悪に満ちている社会の彼方から
いつの日か実現する素晴らしい世界を指すのでもない
そういう理想主義でもない
私たちがこの世界を見て良い悪い、秩序があるなし、ある人を駄目、ひどい、素晴らしいと思ったとする
私はその人間を目の前においている、対象化している、私とあなたという関係で理解する、つまり対象化するとは、自我の中にとりこむ、
なんでこんな不細工な女と関係を結んだのかと吉岡にいわせている
みつを吉岡がとりこんだということ。私たちは人を生かしていない、殺している

ある神父様にであいこんな素晴らしい人はいないと思う時、自分の中にとりこんだときあなたの中でその神父は生きていない、生きているのはとりこんだその神父の思想
その神父のいのちはあなたの指の間を抜けて別のところで生きている
小説で吉岡が何でこんな女をといったとき、ミツのいのちは吉岡の指の間をすり抜けてしまった。

「風がミツの目にゴミをいれる」この小説にはゴミ、染み、痕、傷、あざとかが良くでてくる、すべてに意味がある
「風がミツの心を吹き抜ける、風がミツではない別の声を運んでくる」
この声がレヴィナスのいう「他者」。
悲しそうな声で「みんな知っている。責任なんかよりもっと大切なことがある。この人生で必要なことはおまえの悲しみを他人の悲しみとむすびあわすことなのだ。私の十字架はそのためにある」という声をきく。
「他者」というのは子どもでも赤ん坊でも奥さんでもない。風がふいてきて目に入ったゴミのようなものを通して、ミツの気持ちがキリストの声の方へ向かう。ミツは神、キリストとかは知らない。神の声だから応えようとは思っていない。
遠藤さんはこういう風に書いたけど、ミツの中に実存的に起こってきたことは、夜勤をして稼いだ千円をあの親子にあげようかなあと言う気持ちになった。あのカーディガンを着て吉岡さんに会うのだとものすごく大きなエネルギーを働いていた、そう言う心躍る気持ちで何日も夜勤をした。握りしめていた千円を手放そうとする気持ちを起こさせたのは奥さん、赤ん坊の泣き声、男の子ではないが、実在の他者が契機となっている。この人達に出会わなければ、起こらなかった。
先ほどのイザヤ書も実際にこのように殺されていった、病気、悲しみを引き受けて死んでいった人に出会わなければ、一人の人が私たちのために死んだとは考えなかった。
勉強してもそこには行くことができない、存在の彼方
現代人は自己のアイデンティティ、私自身を強く意識する、それを手放しては幸せになれないと思いがち、たくさんの画鋲を打ちつけ自分探し。
自分を私らしくするための営み。それがあるとき、存在の彼方からの何かによって壊されていく、レヴィナス的言葉だと「死ぬ」。「自分に死ぬ」なんてきれいなものではなく、死にたくないと頑張っているにもかかわらず。
あのカーディガンを買うんだと千円を手放さないと堅い決意でいる、その握りしめた手が開いていく。ミツのこういう体験。

続きます。
アップしてみましたが、どうにも読みづらいので、もう少し整理して再アップするかもしれません。










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Last updated  2009.09.17 17:44:25
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