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後半部分です。講座の時のノート読みづらい長文です。神父様が紹介してくださった手がかりとなる『神なき時代の神』を読んでから、全部書き直すかもしれません。
ーーー マルコ福音書 故郷でのイエス この人は大工ではないか、マリアの子、ヤコブの兄弟ではないか。 故郷の人々は、自分たちほどイエスを知っている者はいないと思っている。イエスを経験済みだ。イエスを対象化し、自分たちの目の前において、自分の中に取り入れた。 このように人々はイエスに躓いた。これが人間の限界。 福音宣教の最初の頃に、イエスはそう言う意味で「殺された」とマルコ福音書は述べている。 イエスの受難予告の場面。 ペトロはイエスをいさめはじめたーそんなことあるはずないじゃないですか。あなたほど立派な方がそんな目にあうはずがない、神さまはあなたにもっと良いことをしてくださる、私たちはそれを信じてついてきている。 一番弟子のペトロもイエスを対象化し、いわば思うがままに作り上げたイエスを語りあげた イエスはペトロを叱り、「サタンよ引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」 聖書学的に言うならば、「イエスをいさめはじめた」それがサタンなのだ。なぜサタンなのか、先生イエスがいったことを受け入れなかった、言うことを聞かなかったからではない。 ペトロはイエスのことを全部自分の心の中に取り込んで自分の思うがままに再構築し、私ではない者を私だといっている。あなたを偶像を神だといっている、だからサタン。 真実をみられないようにしてしまう。 吉岡はミツを侮蔑し、ミツでない者をミツだと言っている。ミツも吉岡を素晴らしい人と取り込んで、吉岡に会う時のためにカーディガンを買おうと千円をにぎりしめている。ここにもサタンの働きがある。それを正気に戻す、本来の人間の姿に戻すのが風の中のイエスのささやき。 ミツは存在の彼方に向かい始めた、千円を困っている母子にあげるよと言った。 それはミツが善良だったからではなく、人は皆こういう形でサタンに翻弄されることを遠藤周作は並べて描いている。 レヴィナス的に言うと、 もし他者が物のように道具化され、ある人の中に取り込まれて、この人はこういうことをする人というように概念化し処理されてしまう 目の前にいるイエスという他者をとらえそこなう風景が聖書に描かれている。 私はぜったいそんなことはいたしませんと自己同一性をはかり自分を鉄の鋲で釘づけている、ペトロの姿は私たちの姿 人間のあやふやさ、自分が自分をとらえている影のようなあやうさ そこにしがみついていると聖霊の風を受けることができない こういう私ですからここが足りない、もっと愛徳を高めてください、愛の人にしてくださいと祈る、これはもう一本画鋲を打ち付けてくださいというようなもの。そこを問題にしたのが遠藤周作。キリスト教理解の大転換 ペトロは大祭司の中庭で焚き火にあたり女中に会う。先生を心配し、なんとか助けたいとついていったペトロ。本当にずるいならばイエスが逮捕された時点で見捨てて逃げただろう。 泣きながら彼は自分自身が何者であるかわかった。3たびイエスを知らないと言った時泣いたのではなく、イエスの言葉を思い出して泣いた。神のことばにふれて、自分が今日まで構築してきたような自分ではないと知った 私は自己という存在に鋲で打ち付けられた存在、私はわたしでしかない、隣の人にはなれないという世界を生きている そしてあなたは大切、あなたは唯一なのですとカトリック学校で教えるけど、 レヴィナスが言うのは 自分自身を素晴らしい者と把握しているが、存在のかなたにおいてそのあなたが了解可能としているあなたではないものがあなたに示される.だからあなたはすばらしい、無限であり永遠である。その高みにあなたはいる。 アウグスティヌスの時間概念、過去とは記憶として現在の中にとりこまれた過去の現在としてのみ過去でありうる 未来は期待としてこうあったらいいなあ、嫌だなあという今の私の中に取り込まれた未来の現在としてのみ未来であり得る。私たちはたいていそう思っている。 ミツが働いていた、ハンセン氏病院のシスターが「ミツのような人になりたい」と手紙で書いている。 これは大きな意味がある。アウグスティヌスの時間観の中で発せられた言葉。 病気ではなかったので帰って良いといわれたが、戻ってきて奉仕の生活へ。 それがシスターが知っている素晴らしいミツの姿。過去が現在にとりこまれている状態。ミツのようになりたい、なっている自分を想定。現在の中に取り込まれた未来。 シスターの中でミツはシスターが生きるための「食料」のようにとりこまれている。 シスターにとってミツの姿に励まされた、ミツのような人になりたい、ああいう犠牲的な生き方に出会えて素晴らしい感化を受けた。たくさんの栄養をもらった。私も努力していきたい。現在の自分の中にとりこまれた過去、未来である。 シスターがやっているのは、イエスに対してナザレの人々やペトロがやったのと同じことと遠藤周作は書いている。 小説の最後。 シスターからの手紙を読んだ吉岡は「このさみしさは一体どこから来るのだろうか」自分は画鋲で自分自身にきちんと釘付けし、会社の中で立派な人間として生きていっている。落ち度ない人間として生きているのに、ミツの話を聞かされたとき寂しさがやってきた。どこからやってきたのか。 「もし修道女がいう神というものがあるなら、痕跡をとおしてぼくらに話しかけてくるのか…」 吉岡がミツを自分の中で捉え侮蔑した時、ミツはすりぬけていってしまった、すりぬけたところに最後に出会った。そこに寂しさがあった。それはミツがよこしたものではなかった。存在のかなたから送られたもの。 すべての人の神である真実の神との出会いの深さが描かれている。ある神概念を知っている者だけの神ではない。シスターの手紙の言葉は、このようにおきかえられるでしょう。「もし神が好きな人間ときかれたらイエスと。誰のようになりたいかときかれたらイエスのような人とと答えたでしょう」 カトリック世界の満点の答え。こういう形で、自分自身を取り込んだ形でイエスと出会う、それでは何もあなたに起こらないと遠藤周作は言いたいのではないか。 マルコ福音書。「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのか」 イエスが人間としてとらえた神は見捨てない神であったのに、イエスの側にたって見ると見捨てられた、なぜ見捨てたのかという嘆いている言葉。自分がとらえていた神は自分の指の間からすりぬけていった。 「エリアが彼を下ろしに来るかどうか見よう」これもイエスを自分に取り込んで解釈している言葉。 イエスが息をひきとられた時、神殿の垂れ幕が裂けたー見えないものがすべてみえるようになった。神殿の垂れ幕とは、それまでユダヤ教の信仰の言葉で告げられたいたものがその枠、概念がさけた。その時、旧約聖書も知らない異邦人のローマの百人隊長が「真にこの人は神の子だった」と言った。これが福音。あらゆる宗教的概念をひきさいて、その彼方から。 最初に神の子と宣言した人となった。こういうことが私たちの人生を運んでいく。私が規定した私自身、私が出会った人をはるかにこえている。私たちはその世界に画鋲でうちつけられていない、真の神をもとめ思索したレヴィナスはそこに他者性をみた。 他からの介入ーそれはただ知らない人と出会うとか、アフリカで奉仕をしたとかの問題ではない。 あらゆるところにふいている風であり、ローマ百人隊長に信仰告白をさせる、存在のかなたからふいている風、神は私たちを見捨ててはいない。レヴィナスが20世紀半ばに告げた。遠藤周作はこの地平にたってこれらの部分を構築していった。私たち信仰者が良く使う言葉、「イエスが一番すき、イエスのようになりたい」というような宗教概念をはるかにこえて、この本の表現ならばどこからやってるかわからないさみしさや、痕跡を通して働きかけてくる。それが修道女が言う神。と30年ほど前に遠藤周作は私たちに告げようとしたのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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