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さるすべり123

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2009.10.14
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H師講話のつづきです。

旧約のヒントとなる箇所。ホセア書、「まだ幼かったイスラエルを愛した」
イスラエルの神は創造主、人間に命を与えるだけでなく、私たち一人一人に人生、生活を与える神。
「生活を与える」とは、人間の考え方、人間の努力によって社会を形成すること。人間はひとりではなく単一の考え方をもつわけでない。
国が富み、経済的に富んでも、人間の悲しみはなくならない。
人と人が暮らす中、大きな戦争、災害もある。その人生を支える神。
必ずしも何もないことを保証するのではなく、何があってもそこを一緒に生きていこうとするインマヌエルの神。それがモーゼが出会い、イエスが父と呼んだ方。
一方、バアルは豊穣の神。私に祈ると豊作ー経済的な豊かさを保証する神。食べ物をふんだんに与えられ、穀物が豊かに与えられることで幸せを保証する、バアルによりすがって、たくさんの穀物を得て収穫を得る、倉におさめ、飢饉のときに5倍十倍の値段で売って富んでいく。イスラエルの国が豊かになるにつれ、偽りの神をおがむ祭壇がふえた。
その構造が立ちゆかなくなって、北イスラエル王国が滅びていくときに書かれたのがホセア書。大不況の現代に呼応している。

ホセア書を読みといていくと、もっとも神を必要とする弱い人にとっての障害がとりのぞけられていく。
新約の時代を生きる教会は、「イスラエル」という言葉を、天のイスラエル、教会、もっと広く考えるならば神様のみこころに生かされている世界という風に解釈されて読む。
だから旧約聖書は新約聖書と一緒にされている、ある民族が特別な優位にたつということではない。これは新たな戦争のもとになってしまい、イスラエル、エルサレムは地上の問題ではない。完成された神様の意志という風にとらえる
国が滅びた神の民の話を何度も書くのか、今のイスラエルと重ね合わせない。アブラハムまでさかのぼれば1万年前に神が何を約束したのか、この土地を与える、「乳と蜜が流れる国」、人々が互いに支え合い生きていく食料が与えられ、人間としての最低限の尊厳が守られるところ。食料をえることが最大の関心事だった時代の文学表現。
国を失ったということは、神様の恵みからそれていったということがいいたい。
神の恵みにそれていくにあたって、人々の側が神様のみ心からそれていった。つまり、人間を大切にしなかった。その当時の人々も、おお神よと、言っていたけど、おお神よだけで、人間を忘れると大変なことが起きる。神を賛美しようというならば、互いに愛しあいなさい、一緒に生きる人を大切にしなさい、そこに神様のみ心が常にある。
いのちを最低限つないでいける場所を神様は約束してくださった。一緒に生きていくというのは、互いに愛し合って生きていくということの言い換え、自分のことしか考えなかった。イスラエルの人々は何度も国を奪われながら回心の旅を続けた。これはイスラエルだけにあてはまることではなく、日本も同じ。1945年8月15日の日本。ポツダム宣言は、日本で即受け入れられたわけではなかった。終戦近く本土決戦、皇居移転を構想し造られた松代防空壕。これを使用せずにすんだから、今の日本がある。戦後の復興、助け合い、日本という国も残った。『長崎の鐘』の著者、永井博士は灰燼と帰した浦上天主堂の前で、亡くなった人たちはいけにえとなってくださったと言った。この人たちの命の捧げがあって、これからの日本は進んでいくと話された。時代にまきこまれながらいのちを捧げなければならなかったたくさんの人たち(兵士として、戦災、栄養失調、戦後の難しい時期に体や心を病んだ人たち)がいて、今があるということを永井博士は語った。そういう地平の中に私たちは生かされていることを、もう一度とらえ直さないと、私たちは、その時々の一番良いものをとればよいというふらふらした考えに陥ってしまう。
ホセア、アモス書のいう罪は何か、その時、その時のいいとこ取りをしようという考え、いつも良い思いをしているところだけを歩きたい、そういう風にしながら結局全てを失うことへの聖書の言葉。
憲法前文を読むと日本という国がどういう国なのか、どういう歴史、魂をもっている国か、小さな島国に生きてきた人々を私たちは文化DNAあらゆる面でつながりあってある時代を営んでいる。それがまさに国というもの。単にある場所に、人が住んだというだけのものではない、それをちゃんととらえないと、私たちは行き先を間違える。
そのヒントが聖書の「神の民」。神の民がどこからきて、どういう歴史を通って、そして今どういうところに到達しつつあるか。ここにいる信者の方たちも、やはりアブラハム以来の神の民。
アブラハムという一人の男に神様がささやきかけた。見たこともない土地へ行くようにと言われ、ながい旅をした。
あなたの子孫は空の星、浜辺の砂の数ほどになると言われた。それはどういうことか、人々はアブラハムと血のつながりある人だと思っていた。イエスキリストの十字架の死と復活、聖霊降臨を通して、血のつながりではなく神の恵みによってつくられる神の民。アブラハムに約束されたのは血のつながりよりもスケールの大きな神の民。こういう厚みの中で物事をとらえる、それを聖書は教えている。日本という国を考える時も同じこと.そういう厚みの中で物事をとらえる。人間の力が尽きてしまったとき、どういうところに神の恵みが働き、誰がどういう発言をし、どういう風に皆が賛同し、皆がその方向へ進む気持ちになったか。あるときは、それで行こうと皆が歩んだら、皆が大変苦しい思いをして、軌道修正をしたりした、そういう中で神様は確実に働いていると思う。
いのちを愛する神は私たちの中で今も働いていらっしゃる。私たちはもう一度あらたに思う。厚みをもって人を見る、地域、会社、共同体の中で人と出会う。一人一人の人にその人に語ってもらわないと分からない歴史があり、その人が生まれる前の父母の歴史などにさかのぼっていくと、そういえばうちも同じだったというように、人と人はつながっている。もしも何らかの形で人と仲違いしているならば、それを修復していくこと、もう一度結び直すことも神様の大きな望みであり、それを私たちは和解と呼ぶ。今の私たちの置かれているところだけでつきあわせるならば全く無関係であり、お互い口もききたくない状態であっても、ルーツをさかのぼると同じような歴史を歩み、同じようなことに出会って生きてきてところに導かれる。そこを見ると、私たちがわかることがある.
アブラハム以来の聖書の歴史というところから話したが、日本の昭和20年における再出発もたったひとつの地点ーポツダム宣言の受諾と天皇の日本国民に対する詔からしか始められなかった。いろいろなものがばらばらになっているが、そこに戻ってみると、皆同じ苦しさ、つらさを生きてきた、今お孫さんたちのいらっしゃる方。孫たちが中年になる頃にはあなたはもう天国でしょう。その時に、孫たちが遺産を巡って反目しあったらあなたは悲しいでしょう。だからそういうことが起きないように皆仲良くしなさいと言うだけではなく、僕が言いたいのは、どうしたら人は一致できるかという方法を伝えておく。つまり歴史的に物を見るセンスを養う。その時の権利の主張だけでは、どうしても勝敗が決まってしまう。私は、親を看ましたとか、おばあちゃんの世話をしましたとかで、どっちがより多くとるかと大騒ぎになる。そうではなく、どんな風に生きてきたか歴史を共有してきたことがあって、歩み寄っていく.そういうセンスを持ってほしい。
「親子で歌い継ぐ日本の歌」というイベントを毎年やっている。いきなり今お話ししたような現実的なことが子供たちの耳に届くわけではないが、唱歌を子供たちと一緒に歌う、もっとも身近にあり、多くの人が共有できるそのような文化を通してつながっていることを再確認する。人間同士はお互い競争しあうこともあるけど、競争することが原点ではなく、共有することに原点があることを再確認することをやっている。皆さんも何らかの形で身近な人たちとこのことを再確認したらいかがでしょうか。思い出話、修道女だったら入会した頃のこと、建物の話でも良い、聖座がいう「修道会は創立のカリスマに忠実であれ」ということで、歴史的検証をすることで終わってしまっては大変残念。創立のカリスマに立ち戻るということは、一人一人がその会の精神にほだされて、そこにやってきた時の心のはやる思い、そういうものを共有したからこそ、今ここに一緒にいる。
我が家の歴史として、立派な年表をつくるよりも、あのときこうだったよねと語り伝える、今は立派な家に住んでいても、終戦後の貧しかった生活、必要なものに事欠くところから歴史が始まっているのだということ、あなたのルーツがそこにあることを知らされることによって、自分たちが何て贅沢なことで我を張り合っているかということがその時の人々にもしわかってもらえるならすごいこと、そのことを神様は何度もおっしゃっている。

今日ご一緒にこの時間を過ごせたことを心から感謝します。





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Last updated  2009.10.14 11:36:23
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