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S女子大社会人生涯学習講座のH神父様のお話です。長いので前半後半に分けてアップします。
小さなことから変わるヒント1 「いま、ほんのちょっと心をいたわって!」 心をいたわる。心も体も楽にしてあげる、甘やかすことも必要。 ちょっとした言葉にいらだつなど、私たちの心が波立つときは、余裕がないとき。 1.霊とは、あなたのいのちのアンテナ。 聖霊という神様の力を受け取るアンテナ. 定義1. 霊はあなたが愛を与え、愛を受けることで成長する 「愛」は名詞ではなく、「愛」は私がどういう状態にあるかという動詞。 今の子供達は生きる力が弱いから学習指導要領にも、生きる力を育てよういう文言がある。これは2千年前から聖書で言っていたこと。愛を受け、愛を与えることで成長していくのが生きる力。 神は愛であるとは、神と愛は完全に同じ、イコールであること。 私たちは時代の中を生きている。今の学生は努力不足、本人の責任で就職内定がとれないのではない。 2.心の傷 傷つくことを目的に生きて来た人はいないが、傷、苦しみから一つの選択が生まれる。 それは、私たちがその苦しみから逃れたいから、消極的なようだが、必然的である。喜びも選択のチャンスであるが、喜んでいる、順風満帆、人はそういうときにチャンスを選択しない.喜びから逃れようというエネルギーはない。苦しみには、なんとかもがいて抜け出そうとするエネルギーが与えられる。 その時は苦しいだけ、意味がないかもしれないが、そこに必ずあるのは、そこからもがき苦しみながら抜けていこうというエネルギーが喜びの場合と違い、あなたが意志をもたなくても、からだ、いのちがわきあがってくる。 その時二つの選択肢がある。 ☆傷を固着される いじける、嫉妬する、自己憐憫におちこむことで、ますますその苦しみは固着する ☆苦しみから逃れていきたいというエネルギーを霊の成長に使っていく そのとき、 定義2、自分一人で心の傷をいやすことができる人は誰もいない 苦しみの中で、あなたが孤立することを選んだならば、いじける、ひがむ、嫉妬する、落ち込む方へ向かってしまう。でも、その時誰かが一緒にいてくれたら、誰かがあなたの話をきいてくれたら、もちろんカウンセラーのように上手に話をきいてくれなくたっていい、あなたと一緒に歩んでくれたり、あなたが苦しんでいる内容が深くて相手に理解できなくても、一緒に歩んでくれてあなたがつらいことを受け取りつづけてくれる人がいるなら必ずあなたは変わる。 鎌田實 『あきらめない』集英社 諏訪中央病院の鎌田先生の生い立ち、生き様を例として紹介。 自分一人で心の傷を癒すことができる人はいない。今そういう人が傍らにいるかいないかは別、今までの人生、思い出の中、人生のどこかで出会った人があなたと一緒に歩んでくれた、あなたの深い霊の力になっている。鎌田先生の歩みを見てみるとわかる。皆さんお一人お一人考えてみてください。 自分の中にいわゆる強さとか、気の強さではなく、生きる力を育んできて、何とか今日まで生き延びてきた。 なぜ、「生き延びてきた」といったか、ちょうどそこを生きるにふさわしい、ぎりぎりの力を神様はくださった。1メートルの壁をこえるのに10メートルの脚力はくださらない。また、必要以上の力を求めるのは傲慢になりたいか、安心したいから。 3.なぜわたしが? 定義3.人は自分の傷を癒すためにそこに呼ばれる 鎌田先生の場合、なぜ1歳の時捨てられなければならなかったか、 諏訪の公立赤字病院、病院廃止の動きもあったくらい。困難があるから彼が呼ばれた。 と同時にその困難の根はあなたの困難とつながっている。 何でひどい夫と30年暮らし、今後20年一緒に暮らすのかというと、 困難があるから呼ばれた。 その困難の根はあなたの困難と共通項がある、つながっているのだから、相手を癒していくによって、あなたの傷も癒されるし、同時に、そこに関わることによってでしか得られない生きるをそこで得られる。 あるシスターがうちの修道会は、ひどい。どうしてこんなひどいところにこなければならないかわからないと言ったとき、「あなたは神様に見込まれたのよ。それだけ課題がたくさんあるところだから、あなたのような実力者が呼ばれた.だから死ぬまでがんばりましょう」と答えた。 困難があり、その傷は自分の傷とつながっている。 傍目には何の困難もないように見えることもある。たとえば、ご主人の会社には、今大勢の学生が就職したいと希望しているかもしれない。でも、ご主人にきいてみれば、必ず、社長が、経営方針が、部下が…多くの問題があるはず。 安定した、つぶれない会社、つぶれないことと、そこで苦労がないと言うことは別の問題。 就職も一昨年ならば景気が良かったのに、突然の景気悪化で就活は難しい。内定がなかなかもらえない.その困難に参与するために呼ばれている。 バラ色のエンジョイとハッピーの世界を生きるために呼ばれているのではない。 と同時に、ただ一方的に自分の力が吸い取られてしまうのではない。その困難にとりくむことで、あなたが豊かにされていく。あなたの中から力が引き出され、あなたが他者(含む物)のために働く、困難に取り組むことによってあなた自身が癒されていく.他者とのつながり、自分を必要としてくれている組織、社会とつながっていくことで相互が癒されていく。 教会だって病んでいるでしょう。そこにあなたが依存的ではなく、健康的に関わっていくことで癒されていく。ただ批判して、遠のいて遠巻きにしているのでは、駄目。そこに飛び込んでいくことによって自分が癒されていく。 自分しか見えない、自分、自分の世界は傷つかないように見えながら、決して自分が癒されない世界。人が傷を癒すために人は呼ばれている。鎌田先生も、自分が派遣された場所に、自分自身をさらし続けたから、自分自身の生い立ちの傷などが癒されていき、人を慰める人となった。 そういう意味で、現代は真に霊的な力を必要とされている時代。 自分の周りにある苦しみを避けて生きていくのでは、自分自身が癒されることはない。 すなわち成長とは自分自身とつながる、それだけでなく他の人々、周りの社会、というように自分よりも大きなものとつながって大きな全体となっていくプロセス 定義4.宇宙の本質はつながりを求めている 神様が愛であることを知らない人たちの間では、上の人に下の人が支配され苦しむ。 だが、あなた方の中で偉くなりたい人(霊において成長していきたいと思う人、神様からいただいた生きる力をどこまでも成長させたいと願う人)は、仕える人になりなさい。一番上になりたい人は僕となりなさい。仕えることがいかに大切か、ということをイエスはおっしゃった。人の子は仕えられるためでなく、仕えるためにきた。多くの人の身代金として命を捧げる。 あなたたちも同じように他の人の命に仕える者になりなさい。一人一人置かれた状況で他の人に仕える人になって行きなさい。「仕える」ということを大切にしたから、イエスは十字架にかかるしかないという状況を引き受けていった。大切なのは仕えて生きなさい。あなたが本当に生きる力を得たいならば.つながっていくということ。大宇宙のつながりに入っていく 鎌田先生の養父母は鎌田先生を引き取る必然性があったわけではなかった。妻は病気で入院費用も必要だった。ぎりぎりのところで心動かされ、捨て子の鎌田先生を引き取るという「仕え」で生きた。一人の子供とタクシー運転手の養父母がつながった。状況は良くないけれどその人達の中に生きる力がわいてきた。鎌田さんは自分の傷を癒すために赤ん坊の鎌田先生をひきとった。 マタイ20.20「仕えるということ」 太陽をのぼらせ、雨を降らせ、大地の実り、人々の心に勤労意欲をわきたたせるというような形で、神様は常に今も仕えておられる。 人間は神の似姿として造られた。イエスが仕える者となりなさいというのは神の似姿として造られたあなたの召命。あなたの召命をただそのままに生きなさい、無理して他の何かになるのではなく、神の似姿としてもう造られているのだから、つながって生きていきなさい。 逆に言うと、自分だけ、周りは何も見ない、これ以上煩わされないように、耳も目もふさぎ、すべてを閉ざして生きていくのは、私の中にたくさんの緊張感を生み出す。自分が自分がというのはエゴの世界。これは私たちの身体の健康を損なうかもしれない。身体をほぐし、心を解き放つと自ずと今このときも仕えておられる神様の姿になっていきますよとイエスはおっしゃった。仕えなさいというのは無理しなさいという意味ではない。 最後の晩餐のイエスの言葉。これをとって食べなさいーこれがミサに発展。何より大切なのは一同が一緒に食事をしたということ。同じ釜の飯を食う。パン、葡萄酒をとって食べなさい。これもつながって生きなさいということ。あなた方は一心同体です。地球が生み出してくれた物以外食べることはできません。 牛肉を食べる、その牛は大地の草を大量に食べて育った。パンも葡萄酒も、すべての食べ物が神様があらゆる物、人間に仕え、それとひとつになっていきます。 同じ食事をするということはつながりを作っていくこと、そのようにしながら神によって創られた宇宙の大きな動きの中に入っていく。この場面で告げようとしているのではないか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.12.12 18:35:41
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