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さるすべり123

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2010.06.07
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イエスキリストの復活は「恵み深い神に感謝せよ、その憐れみは永遠」永遠とは、 本物、限りがない。ここをおさえる必要があります。

そこに復活の第一の意味が出てきます。イエスと弟子達の間のあわれみ。弟子達を私たちの代表としてみ る。

復活の第2の意味は父なる神様とイエスの間に見えてくるあわれみ。イエスは使命が与えられて乙女マリア様のおなかに宿りまし た。皆さんもお母さんのおなかに宿った時にちゃんと使命を一緒に与えられています。単に生まれただけでなく、ちゃんと使命が与えられているのが人 間。人は会社員として生きる使命、ある人は父親、母親として、ある人は芸術家、スポーツ選手、教員…。どんなこまごました生き方でも必要。いろいろな人が 必要。皆が同じでは困る。神様の助けもあり、家庭の助けもあって無事に定年を迎えるまで勤めたというのは使命を果たしたように思える。では、イエ スの場合はどうだったでしょうか。イエスの使命は父なる神がお造りになった人間達に父である神のみこころをつたえることでした。弟子達さえもイエスの心、すなわち父のみ心を理解していませんでした。イエスは父からあずかった使命に失敗し父の元に帰っていった青年でした。もしイエスが使命に成功し、みながイエス様の心が神様の心だと理解し、回心したなら ば、それに対し父なる神が厚く処遇するのは当然。そこに祝福はあっても憐れみは必要ないでしょう。父なる神の根底にあるのは憐れみと慈しみ。全て の使命に失敗して傷ついて帰ってきた息子を抱きしめ、復活という形で生きることへ招いた。それが息子に対してだけでなく全ての人に及んだ.そこに父の愛の 深さと広さがあります。

徴税人や罪人がイエスの話を聞こうと集まった時、イエスは罪人と一緒に食事をしているとファリサイ派は批判。(ルカ15)そ こで3つの憐れみのたとえ話をしました。放蕩息子の話だけをとりあげるから焦点がずれてしまいます。なぜあんなに一生懸命父に仕えた兄に対して父なる神はやさしく しないのだろうか。3つのたとえ話はセットとして考えます。

第一の話は100匹の羊を飼っている人は、一匹がいなくなったらどうするか。見つかったなら 羊を肩に担いで帰る。なぜかつぐ?道に迷って歩き疲れて歩けないほど弱っている。近所の人や友達を集めて見失った羊を見つけたので一緒に喜んでくださいと いう。そこに大きな喜びがうまれる。あなたが1週間探し回っていたのを知っていた、見つかって良かったねと仕事の手をとめて喜んでくれる。羊の話。

第 2はなくした銀貨の話。家の家具とか動かし、掃いて埃の中を探す。友人や近所の人が喜んでくれるでしょう。銀貨の話。

第3は放蕩息子の話。父の財 産をもらって使い果たし、人間としての尊厳も奪われ、食べるものもない。彼は考えた、使用人だってご飯食べている。息子して帰りたいなんていっても家に入 れてもらえないだろう。雇い人の一人として働かせてもらおうと考えた。何十年ぶりに帰ってきた弟息子を父は、すぐにわかった。それは父は弟息子をずっと探 していたから。息子が父に向かうのではなく、父の方が息子へ近寄ってきて息子を抱きしめた。「天に対してもお父さんにに対しても罪をおかしました。あなた の息子と呼ばれる資格はもうありません。」と言った。外国で考えていたのは、「雇い人の一人にしてください」と言うことだったが、言えなかった。父親に抱 きしめられた時、真実に目覚めた。お父さんは良い服を持ってきて着せ、指輪をはめ、みんな喜び合いましょうと子牛を屠ってパーティをひらいた。一番喜んで 欲しかった兄が受け入れないという話をイエスは生前話しました。私たちが物をなくして見つかったというときには寛大。人は一番近い存在であればあるほど、 その人のことが受け入れられないという話。そこに人間の深い闇がある。弟という罪人、兄という罪人、どうしようもない人間が描かれている。弟は父に会いた かったから帰ろうと思ったのではなく、食べさせてほしかったから。

十字架を過ぎ越してイエスのように帰ってきた人間であれ、この放蕩息子のように 帰ってきた人間であれ、まったく差がなく受け入れる父なる神をイエスは生前説きました。父なる神様とイエスの間にみられる憐れみがこの二人の間だけでな く、全ての人に及んでいく証がここにあることをみる。イエスのように帰ろうと、放蕩息子のように帰ろうと、兄のように父のもとで拗ねていろいろ言ったとし ても、あなたは私と一緒にいたじゃないかという、どんな状態で帰ってくるかに一切差をつけず受け入れようとする神。これが復活が表す物語。父の元 に帰ることが一番大切なこと。イエスは父からの使命を成し遂げることができず帰った、放蕩息子はご存じのように実りなく帰った、ずっと父の元にい た兄は弟が帰ってきたことによってこのように闇を暴露した。この兄の前で呆然と立ち尽くしあなたはいつも私と一緒にいたではないかとうなだれる父。父の元 に帰ることが大事で、どのように帰って来るかに一切条件をつけない。イエスはあのように何もできないで命を落とすことによって、父なる神に抱き留 められ、復活という出来事がおき、神の憐れみの本来的意味が明らかになった。何をして帰ってくるかではなく、帰って来ることが大切イエスはあのよ うに命をおとすことによって、使命を全て果たした。父なる神の心、計画を父なる神様ご自身が現すことになった。神の啓示、父なる神の心を表すことは、復 活、聖霊降臨によって終結した。私たちはその世界を生きている。全部示されて、一人の人間のあのような悲惨な死を通して、自分の望みを何一つ果た せず失意の中で十字架にかけられて死ぬ姿をとおして、何をするかではなく、父のもとへ帰ることが大切ということが現しきった。人々の罪がからまりあって、 あのような結果となったが、それをも使って神様が示してくださった宝ではないかと思います。それが「恵み深い神に感謝せよ、神の憐れみは永遠」先 ほどの聖書の箇所「思いをひとつにして、同じ愛をいだき…」パウロがこのように言えたのは、私たちにはガソリンとエンジンが与えられているからで す。ガソリンとエンジンは「小さき者よ、我に来たれ」という呼びかけてやまない父なる神がいらっしゃる。帰ってきかたに条件をつけない神がそこにいらっ しゃるというエンジン、信仰の心です。






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Last updated  2010.06.09 22:55:37
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