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さるすべり123

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2010.12.07
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人は生きていてさまざまな経験をします.喜びだけでなく、悲しみ、苦しみ。ある時何かの経験をし、ひきずることがあります。忘れていても何かのきっかけにでてきて、過去をひきずってしまう。過去は変わらないことによって苦しめます。

「過去と他者は変えることができない」
確かに自分の人生ですが、過去は自分に属していない。「過去の他者性」過去は私たちをこえています。
偶然でなく、自分で計画し、実行したことであった行為であっても、過去はその人に属することができません。その意味で、私たちの人生は他者性をおびています。
時の流れは残酷なほど他者性をおびています。しかも他者であるにもかかわらず、過去は仮借なく私におそいかかってきます。これが私たちの歴史、個人、集団、国家の歴史なのかもしれません。
時がたっても過ぎ去った過去は影響力をもち、私に襲いかかってきつづけます。
しかし、実行した結果を変えることはできませんが、それを受け止める私は変わっていく可能性があり、「変えられる」ことができます。
そのテーマでお話します。

今回の聖書の箇所は「良きサマリア人のたとえ」。この箇所はこの完結しているのではないと私は思います。ルカ福音書全体と連結している、さしあたってルカ10章がどういう場面がおさえます。
弟子72人を任命し、二人ずつ使わされました。天地万物の創造主、父なる神のみ心がどういうものか伝えたい、これがイエスのこの世での第一の使命。それを展開する時、まず弟子達を使わしました。
狼の群れに子羊をおくりこむようなもの。使わされる弟子を子羊にたとえました、羊は自立してず、羊飼いなしに餌を探したり家に帰ることもできない無力な動物。17節は大事な箇所です。
72人は喜んで帰ってきました、イエスの名前(権威)を使うと悪霊さえも屈服しました。悪霊という言葉は日常用語ではなじみがないけど、消え去ったものではありません。悪霊という言葉を使わないだけです。
悪霊というのは私たちが良いことを目指そうとするときにも働きます。たとえば主日に教会へ行くのは正しいこと、だからタイムレコーダーで出席を確認というのはどうでしょう。良いことであっても、必死に良くすると新たな悪がはじまります。様々な社会的・個人的事情でミサにあずかれないこともあります。毎日ミサにあずからないとカトリック信者ではないような気がする人、クリスマスと復活祭だけでいいと思う人さまざまです。主日に教会へ行くのはそのようにして信仰心を豊かに実らせるため。行っても単にタイムレコーダーを押すだけ、あるいは毎週出席した人が欠席した人を見下す。それが悪霊的働き。一心に努力するところにも悪霊が働き出す面をもっています。
弟子達が帰ってきて、悪霊が従うよりも、
あなたの名(存在、生かされ生きていることの全体)が天(神)のみこころの中に置かれていることを喜びなさいとおっしゃった。
イエスは続けて神に向かって祈りの言葉を言いました。そういう場面は聖書の中で多くはありません。
「智恵あるものや賢い者ではなく、幼子のようなものにしめされた。これはみ心にかなうこと」
☆子羊、幼子、とはどういう者か。
「すべてのことは父からわたしに任されている。父がどういう方であるか子と子が示そうとする思う者しかわからない。」
☆神がどういう方か、人にはわからない。これも一つのテーマ。

智者、賢者、預言者、律法の専門家ーー子羊、幼子、こういう対比の中で「良きサマリア人」の話があります。
この話だけを取り出すと、貧しい人、困っている人を助けましょう。これも正しいですが、10章を見渡すと、この話の中に上の答えが入っています。

イエスを試そうとした、それがイエスとの出会いのきっかけでした。律法の専門家というのは、聖書が当時の国内法だったのですから、法律の専門家というようなものです。

「永遠のいのち」というのはとこしえに続く命という意味ではなく、本物のいのち、本来的人生という意味。そこに想定されるのは神。神が一人一人に与えた人生を生きるにはどうしたらよいでしょうか?という問い
地上を生きていく上でも大切なこと、死んでから後の話ではありません。
律法に何て書いてあるか、旧約聖書です。
隣人を愛しなさい。

人は一人では生きられません。現代の人も電車、電気誰かに支えられて暮らしが成り立っています。2千年前の人々はなおさらのこと、身近な人々と助け合わないと暮らせませんでした。
何処までが隣人か?という問い。親戚、あるいは同じ村の人、ユダヤ人…

ここからが大切な話です。
エルサレムから下ってきて、強盗におそわれ半死半生となった人がいました。
社会において尊敬される人ー祭司(聖なる儀式を行う職)、レビ人(祭司を助ける人)

「見る」という言葉に注目しましょう。
私を見た者は父を見た。
聖書では「見る」とは視覚でとらえるものだけでなく、経験する、体験する、ということ。見る=知る
父がどういう方か知るということ。
ここでは3人とも「見た」のは同じ。2人は向こう側へいってしまった。サマリア人は見て、「あわれ=はらわたがよじれるよう、突き動かされる思い)に思い」近寄って、傷に手当、介抱、宿屋へ連れて行った。このあたりは、次々と動詞を並べていくルカが得意な書き方、ドキュメンタリーを見るような感じを与える。台所で手際よく料理するような雰囲気。
夜自分の部屋で介抱したが、次の朝仕事(商売?)へ出かけた。まだ半死半生の人は回復していなかったので、「この人を介抱してください」と宿の人に頼み、お金をおいていった。帰りがけにも立ち寄るので、足りなかったら払うといった。
サマリア人は自分の予定を変えなかった。泊まるべき宿屋に行き、自分の部屋で一晩世話を師、朝には予定通り出発した。
自分の予定は変えることが出来ない。地上を生きる私たちの宿命。その中で自分の出来る精一杯をした。

自分の身分を変えたり、立ち位置を変えたのではない。現実世界を生きている。
予定の遅れは許されない。
祭司、レビ人、サマリア人3人とも自分の予定を変えませんでしたが、
サマリア人は。はらわたがよじれる思いで近寄りました。
自分のストーリーをこえるエネルギーはどこからでたか。その人の資質ではないと思います。
サマリア人もホームレス、孤児をいっぱい見たでしょう。どうしてかわからないけど、このときさマリア人ははらわたがよじれるというエネルギーを与えられました。祭司やレビ人も『見た』のだから半死半生の人がよびおこしたのではない。見えない何かが働いた、すなわち、その時サマリア人に神が示されたということ。父と子がどのような方かどのように示されるかの一つの答えがここにありります。
もう一つ押さえておきたい点はサマリア人が予定を変更しなかったこと。私たちが外からみて英雄的なことをしたのではありませんでした。スケジュールは何一つ変更せず仕事を終えて帰っていったので、上司に報告する必要もない、彼の心の中だけにしまわれている出来事。
一晩看病しても目を覚まさなかった、半死半生の人はありがとうという言葉、友達になったわけではありません。人格的交わりもありませんでした。

人格的交わりの意味が問われています。
サマリア人はボランティアを一生懸命にする人ではない、こういう出来事があったからといって人助けの仕事に転職するわけではなく、今までの仕事を続けて、市民社会の中で目立たずこの世の生を終結させたでしょう。
永遠のいのちー本物のいのちをいきるということと、この話がどこで関係するか?
サマリア人がこの出来事をきっかけに貧しい人を助ける人になったというなら、永遠のいのちを常に生き続ける人になったということ
教会の中で記念するという言葉をよく使います。これを私の記念として行いなさいーイエスキリストの十字架上の死を記念して生きなさいというのがキリスト教の中心にあります。旧約の中心はエジプト脱出を記念すること。永遠のいのちに招かれるというのは、また何かの機会に半死半生の人がいたら助ける、そういうことをやり続けるということが本物の人生に招かれるというのではないでしょう。
サマリア人にとって、おそらくこの体験は一回だけだったでしょう。この時、わたしの意志をこえて、はらわたがよじれてこういうことが起こりました。だから彼は祭司やレビ人を責める気もない。それまでに多くの貧しい子供や物乞いにも出会ってきても行きすぎただろう。はらわたがよじれての一連の行動を記念し続ける。自分のストーリーをこえでていかせるエネルギーに私が出会った。人間の側からみれば偶然のように思える出来事が、神の側からみれば彼にとってもっとも最適な必然の出来事だということを忘れずに記念しつづけて生きること。それが永遠のいのちへむかうプログラム。
誰が隣人になったか、友達となってはいない。
半死半生の人に近づく前に神は彼にふれていた。ここが大事。それを記念し続けること。こういう出来事は死ぬまでに一生に一度かもしれない。自分の主体性、自己決定、自己責任というおのれをこえて何者かによって動かされた3日間。出会った1日目。宿屋で介抱して2日目、宿屋の主人にお金を渡して、仕事へ出かけて帰ってくる3日目。
人生の中で三日間が彼にある。この三日間を記念し続けることで彼の人生の道行きが変わっていく。神の働きかけを受けてこういう風に行動した自分がいる。そういう自分が、仕事が忙しくて、次の機会では関わることができない。過去は仮借なく私たちにおそいかかる、他者である過去は変えることができない。だが、変えることのできない過去が私を育てていく。そういう自分自身と出会って、そういう自分を信頼して、希望し、愛していきなさい。だからべったりペンキを塗ったみたいにはじからはじまで聖人である必要は私たちはない。人生のたった一点にすぎないことでも忘れないで記念し忘れないようにすること。その過去が働きかけて私たちを変えていく。そのことにこの人は出会えた。これが良きサマリア人の話。これが、どうしたら永遠のいのちをいただくことができるかという人間の根源的問いへのイエスの答え。

『あからはじまる贈り物』という本の一節を紹介します。
「にーにげないで」
少年は誰一人自分の誕生日に気づいてくれず、両親からも無視されている気がして、自殺したいと考えた。最後に中学を訪れたら、たまたま日曜なのにクラス担任の神父に出会い、「誕生日おめでとう今日は君のためにミサをささげたよ」と声をかけてもらった。彼はその時「生きよう、僕を思っていてくれる人がいたんだ。」と思った。
本人達が何も了解せずにさまざまなことが起こっている。神父も少年の心に何がおこっているか知らなかっただろう。無我夢中の中でやったこと。
「無心」と「一心」とは天と地ほど違う。「一心」は聖人になるために一途に頑張る、困っている人をすべて助けなくてはと、いうようなこと。

人間は子羊、幼子のようにさせていただける時があります。
「わたしがすてた女」の男とミッちゃんの出会いもサマリア人と重なります。
「このむなしさはどこから来るのだろう」と男の感じたむなしさは、本来的いのちを感じさせられたから。そのことを記念することによって、これからの男の人生を導き続けます。
人は本来的いのちを生きるようにされているのです。





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Last updated  2010.12.08 21:38:31
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