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主のご降誕おめでとうございます。
日中のミサ説教が心に残ったので思い出しながら書いてみました。 ーー イエスの生涯は誕生から十字架の死、復活と時系列的に考えられていたのではなく、イエスがキリストであり、復活したということが第一でした。初代教会がクリスマスをお祝いしなかった。これは当然のこと。イエスキリストの復活があってクリスマスがあるという順番をまちがってはいけません。 一つの事柄があっても、見る人によって表現、内容が違ってきます。 4つの福音書が福音記者によって違っているのを、一つにそろえなかったとは素晴らしいことです。そうでなければ、こんにちの私たちはイエスの生涯について多くのことを知ることができないでしょう。 私はどうも世間の風潮にのった、にぎやかなクリスマスが嫌いで、赴任した教会でもクリスマスの夜のダンスパーティや聖堂に大きな樅の木を切ってきて飾るなど、いちゃもんをつけたりしました。 また、聖地巡礼にも9回行きましたが、ベツレヘムの聖誕教会で、ありがたがって皆が跪いてその場所にふれて祈ることに対しても、イエス様が本当にこの場所で生まれたのではないと批判的なことも言ったりして、周囲をがっかりさせてきました。ある日ふと気づいたのが、宇宙からみたら豆粒のような小さな地球に神の御子がお生まれになったという、すばらしさ。場所がずれていることはたいしたことではない。それならば、多くの人がそこだと信じて祈ってきた。その場で祈る大切さ。おまえは信者、神学生、神父となり、たしかに聖書の知識はふえたけど、信心、信じる心はどうだったのか、聖書学の知識をひけらかして何になるのか。 そう気づいた時、今まで批判的なことを言ってきて恥ずかしいから、皆の後で外国人の巡礼団と一緒に跪き、神様イエスを地上に誕生させて下さってありがとうございますと素直に祈った。巡礼後、写真をもらったら、誰かが、その祈る姿を写していた。その姿には後光がさしていた。単に近すぎてハレーションをおこしただけですが(笑) フランス人の神父で詩人の忘れられない詩があります。 クリスマスを祝い、口では平和、愛といいながら、戦争、争いをおこす人間をうたった詩。 口先だけの平和を説きながら、一方に虐げられた人、貧しい人、戦争、災害、飢饉などがあるという事実に目をつむる。その2枚舌。これも昔も今もずっと変わらない人間の性だけど、せめてそのことに気づき思いをはせる、何かほんの小さなことであってもできることを考え実行する。それが真の平和への一歩。 最後にクリスマスは何かといえば、神様から人への愛。人と人との愛、絆。 私たちはクリスマスを大切に祝う心で日々を生きなくてはなりません。 ーーーーー きちんとまとめられたお話だったのに後半部分が思い出せません。 このミサの「聖書と典礼」裏表紙に載っていた「きょう、あなたは呼ばれた」というシスター牧野みどりの文章もすばらしいものでした。 今年は羊の肩ロースの固まり肉で、ローストラムを焼きました。夫が、チーズと目玉焼き入りと、スモークサーモンとキノコとタマネギを入れた2種類のそば粉のクレープを作ってくれて、家族がそろっての夕食。家族がそろっての食事は次は正月でしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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