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途中までしか参加できなかったのでアップできなかったS女子大、社会人生涯学習講座のノートです。星野神父様の著書発刊が待ち遠しいです。
ーーー ルツ記を「変化」で読み解く ☆「変化」は私たちの生活につきまとっている。 人間の胎内に宿らせていただき、母胎内で育つことも変化、新しい世界への脱出=誕生も変化。 私たちは、偶然、このままであって欲しい状態を手に入れていると、そのままであって変わらないで欲しいと願ってしまう。 ☆無意識的変化 変化には、意識的変化、無意識的変化のふたつがある。 「無意識的変化」ー自分がコントロールすることにできない変化が、私たちを変化させる。いいかえると無意識的変化は「霊的革命」をひきおこす。 快適さ、便利さを求める文化・生活の向上の面からみると、嫌なこと、辛いことはできるだけない方が良い。 しかし、魂の成長を考えると、あらゆること、望まない変化も人の魂を成長させる。その最中は辛く、嫌。後になって振り返って、そこを過ぎこして今の自分がある。それが魂の成長。 私たちの社会は文化・生活の向上を目指すことばかり求めすぎる。この面が上手くいかないと全てが駄目と思ってしまう。 たとえば、有名小学入試に合格、難関中学入試に合格、順調な道を歩んでいたが、高校時代に大病して長期入院し高二で留年。なんでこんなことが私たちに起きるのかと言いたくなる。これで全てが駄目になったか?その子にとって成長にどう働くか、マイナスとは誰もいえない。 ここにいる皆さんがうなづいている。 社会全体から見たら、体を鍛える、医療を進歩させることで、そういう挫折が起きないようにし、もっと素晴らしい人生を歩ませようとする。 ☆霊的革命 「無意識的変化」は、不連続性の変化であり、霊的な革命を引き起こす。 神は一度限り私を創造したのではない。胎内に着床させただけで終わりではない。常に私を仕上げよう、私を創造しようとしている。これが神。なぜ神なのか、私が自ら望んで起こす変化ではないから。私の力を超えているから神。 そして新しい世界を持つ人へと誘導する。その人は今まで決してしたことがないことをする。見たことのない現実を見るようになる。新しいことを考え、新しい夢を自分の人生の目的とするようになる。 霊的革命が起こった時、一番特徴的なこと ふと気づくと(すぐにではないが)あの時あんなに嘆いたのに、私は過去にしばられていない。そのことに気づく。人生に起こったことを忘れたわけではなく、自分の歴史に刻まれているが。過去に縛られていた時には決してできなかったことをする。 それが新たな創造。常に神が私たちを作りだそうとしている。まったく生きる力のなかった私に新しい地平を開き、生きる力を与える。 全部の人がそのようにできるわけではない。ある人は過ぎ去った過去の一隅にうずくまろうとする。そういう時間も必要な人がいる。外部の世界から身をひき、日常生活の一つ一つを過去と比較して生きる人もいる。 また全ての変化が成長させるわけではない。 人間は変化の時にその人がどんな人であったか明らかになる 「変化」が必ずしも人間によって良いものをもたらすとは限らない。 悪の方へと変わることもある。 麻薬常習者、食事の悪い習慣が断ち切れない者、自分を癒すためにあらゆるものに手を伸ばす、犯罪的なものになるかもしれない。ーこれも変化がもたらしたもの。 一方、ナオミやルツのように、自分を漆黒の暗闇にかけてみようという人も現れてくる。 私自身と私の周りは、「変化」によってかえられてしまうが、しかし変わらないものがあることを知っている人は幸せ。 私たち一人一人の小さな存在は神様のみ手の中にあり、神さまのまなざしがそそがれている。そういうことを知っている人は、悲劇的状況でも底なし沼ではない。 たとえば、幼児洗礼の人で、「神はいつも共にいてくださる」と教会学校のリーダーに教わった。中学以降は部活動など忙しく友達と過ごしたいからと教会にも行かなかった。(幼児洗礼に多いパターン(^^)その人が30歳になって暗闇に入った時、かつては知識として聞いていたことばが、理屈を越えて、その人の実感となる。変わらないものに包まれているという確信。『神は共にいる』という知識は暗い体験の中で、その人のいのちを支えるものに変化していく。それが神のことば。 そのようにルツ記を見る 私たちは ナオミ(年老いた母)墓から遠ざかり、消極的意味ではあったが旅立つ オルファ(兄嫁)確実さを求めて自分の実家へ帰る ルツ 漆黒への闇の未来へと旅立つ 3人ともモアブの地にはとどまらなかった。表層的にみればルツだけが英雄的に見えるが、そればかりではない。兄嫁のように人生をやり直す、女性としての社会的役割を果たす、それも良い。三者三様の真実、変化がここにある。 私たちはそのように生きて来たし、これからもそう生きていく 一つの大きな霊的問題がある。 変化が勇気を求める。 勇気は変化の最中に簡単には与えられない。 あのときは愚痴や泣き言ばかりをいって、なぜ、あんなにくよくよしたのだろうと思う。が、それは成長した今、振り返ってみた時に思うこと。 東日本大震災後の仮設住宅に申込者が少ない。力がわいてこない。そういうときがある。 変化にどう対応するか。変化が私を何処へ連れて行こうとしているか。 ただ震えている自分しか見いだせないこともある。 私たちが怖れているのは危機ではなく、危機の先にあるもの。起こってしまったことが私をひるませているのではなく。そこからどうやって立ち上がれるかどうかわからない不安。そこにうずくまらせるものがある。 未来は予測できない。 冷静に考えると過去が遮断され、なれるはずのなかった自分になれる可能性がある。 変化の生活を通して、私たちは自分の深みにおいて、たったひとつのペルソナではない。私の中にいろんな人が住んでいる。 私は私を知らない存在。私にとって神が未知で有るように、私にとって私は未知 私たちは、「私」のペルソナの一部しかしらない。変化のなかった生活のなかでの「私」しか知らない。変化がやってきたとき、私が知らなかった、「私」も現れてくる。それも「私」だった。 「私」が全面的にいのちへと開花しようとするとき、 このような「変化」の時は大きな役割を果たす。一人の人は体験と能力の総合体。 変化の時は大きな役割を果たす。 一人の「人」は体験と能力の総合体と言えるかもしれない。 私の望みと神から与えられたたくさんのたまものの集合体 「人」は女性の胎内に宿った時期があった。誕生という次の次元へ。人生の出発点。胎内にいたのも「あなた」、生まれたのも、「あなた」。それが恵みの時であったように又、新しい何かに向かって「あなた」は成長している存在なのではないかと思う。今よりもっと誠実なものを求め、今よりもっと神様の奥深くに入る 私たちが過ごしてきて、決して帰ることのできない年輪がある。私たち自身の中の何か新しいものを示してくれる 人生のそれぞれの時期、それぞれいろいろなものに信頼して生きる自分のパーソナリティに信頼、それが自分の今日を支え未来を開くと確信、ある時期には、私のもっている能力、資格、想像力、信仰の力、を頼りに生きていく。 ☆第三の時「変容」 「喪失」の時、「変化」の時に続く「変容」の時がくる ルツ記1.8。主の御手がくだされた(夫と息子二人の死)、兄嫁も姑ナオミについて行くと言ったが、姑の勧めに従い自分の里へ帰り、新たな人生を構築し、新たな人生を決断。姑についていく、離れませんと言った時の自分と違う自分を見いだした。これも素晴らしい決断 私たちの中の何かが変わり、受け入れたくない私たちの気持ちを無視し、私たちがまさかこんな自分(ペルソナ)ではないと思っていたのに、想像もつかなかったことを言い出している。 ルツは、こんな風に姑ナオミについていく自分がいったいどこにいたのか。自分を発見し出会っている最中。 私たち自身が変わったと気づくときー変容された時 自分の意志ではない、神が私たちの中に働いていることを確かに知る貴重な瞬間 変化に出会って扉ををあけて出てきたのは、私に取って見知らぬ「私」だった この同じような体験をイエスも大切にしている ヨハネ8 姦通の女の話を「変容」で見る 姦通した一人の女が捕まり、広場に引きづり出された。 この女は神に呪われている、神に絶対に受け入れられない存在 この時,律法学者、パリサイ派の確信は、こういう女は石で打ち殺すべきだ。 でもイエスはかがみ込んで字を書いていて、何もしない。 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまず女に石を投げなさい」 年長者から去っていき、周りにいた人々がいなくなり、イエスと女だけが残された。イエスは身を起こして、婦人と会話した。 確かに救われたのは婦人であったが、もっと深いところで救われたのは律法学者、パリサイ派であった。 自分は石を投げることのできる罪のない人間ではないと知った。 それも一つの「変容」。 イエスと関わる、話すことによって律法学者、パリサイ派は変えられていった。 彼らの目的はイエスを困らせ、陥れることであり、この女も石打ちも道具にすぎなかった。彼らは握りしめていた石を置いて去っていった。こんな風に変わりたいと思っていたわけではなかった。自分が想像もしない者に変えられていった。これが「変容」の瞬間。 これは私たちに必ず起こってくる。 人生、生活は私たちの望みに反し、必ず変化する。 なのに、私たちは自分の人生を理解する上で、まちがえる。 人生は、生から死へのまっすぐな道ではなく、小道に寄り道したり、袋小路もいっぱいある、脇道にそれたりする複雑な道。いろいろなことが必ず起きる。そうやって生きてきたのに、子供には人生の一直線な道を望む。複雑な道を歩むためには何が必要かという発想をした方が良い。 皆、一直線が好きなので有名大学付属の幼稚園、小学校ができると殺到してしまう。 私たちが出くわす現実こそ、私たちの最大の教師。その時神がいて私たちを一歩先へ連れて行ってくれる。 私たちは結婚したり、安定した職業についた時、自分の将来がこれで確定した、今までより落ち着いて生きていけると考える。シスターならば修道会に受け入れられ、終生、荘厳誓願。皆におめでとう良かったねと言われるが、それ以前の方が平坦で、その後が苦労が多い。司祭も盛大な叙階式後、そこから先が大変。毎日結婚式、叙階式ではない。 目的志向的型生き方が問われている時。本当の意味で人間はまだ使っていない知恵を使えということ 神学生が叙階式までの知恵で、一生生きると思っても無理。当たり前のこと。 大学のキャリア教育も宗教者として乱暴な言い方をすれば愚の骨頂かも。叙階式までの教育しているだけ。毎週のように会社のえらい人を呼んで講演会を開いているが…^^;;) 一人一人が袋小路にぶつかって神様を頼りにしながら力をつけていく。 私たちの生き方はもう少し賢くなる可能性がある。 ☆昨日はもう私たちの生活を測る尺度ではない。 盛大な結婚式や叙階式も次の日、生きることの役にたたない。司祭は自分の頭を使い、教会と信者に向き合っていかなければならない。たくさんの人に祝ってもらった結婚式は大切で大きな意味があるが、振り返っても何も、はじまらない。大勢にお祝いしてもらったから今日の私は幸せでなければならないと考えるのはみじめ。 定年後の大企業重役、あなたがたとえ何者であったとしても、今日がそうでないなら、そこから生きなくては。 昨日は昨日までのこと。 ルツ記の3人の女性は、そこから立ち上がって自分の道を歩き出していた。彼女たちは息子たち、夫たちと暮らした日々を憧れの対象としていつも思い出さなくても生きていけるようになった。彼女たちにとって確かな道はもうない。自分の体、能力と心を持って歩いて行かなければ道は開かれないことを彼女たちは悟った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.08.10 13:14:29
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